信勝が誅されかけたという話は、たちまち尾張に広まった。
家老である勝家の証言もあって、信勝派の面々は次々と信奈に帰順していった。
特に信勝の取り巻き達は、勝家から一部始終を聞くや否や、全員で頭を丸めて許しを請うことを決めてしまうというありさま。
そのあまりの情けなさに勝家は、決断を先延ばしにしていた自分の不明を恥じるばかりだった。
とはいえ、全くのお咎め無しというわけにもいかず、信勝は『津田信澄』と改名したうえで、正式に信奈の家老となった勝家に与力として使えることになり、
取り巻き達は、しばしの蟄居の後、別の部署へと異動し信澄から遠ざけるということで決着となった。
(ちなみに、信澄の澄には、姉上に対して川の流れのように澄んだ心で仕えるという意味を込めた、と聞いてお調子者っぷりは変わらないか、と太助は思った)


そして夜になり……。
うこぎ長屋の良晴の家では、良晴が夕食としてうこぎの葉をちぎって集めている間に勝手に上り込んだ織田家の面々によって、宴会が開かれていた。

「太助、今回の件では本当に世話になってしまったな、すまなかった」

そう言って、もう何度目になるか解らないが、頭を下げる勝家。
湯帷子でくつろいでいるため、胸元が露わになっており、先程から良晴が実にいやらしい目つきで盗み見ている。

「いや勝家さん。頭を下げないでください。俺だって下手をしたら、主に狼藉を働いた罪で打ち首になっていたかもしれないんですから」

ちなみに、その件は信奈が、太助は自分の決断を自分に代わって実行しようとしただけだ、と不問になっていた。

「そのことじゃない。長屋でお前に言われた通り、あたしは忠義を何もしないことの言い訳にしていたんだ。そのことで信奈様を長い間苦しめてきた……。
 この汚名はこれからの働きで必ず『挽回』してみせる!」
「……勝家さん。汚名ってのは『返上』つまり返すもので、『挽回』つまり取り戻すものじゃないですよ」
「そ、そうなのか!?」
「それに、信奈さんの「姉」としての本音を、良晴さんが引き出したからこそ信澄は命拾いしたんだから、良晴さんにありがとうぐらい言っておいた方がいいんじゃないですか?」

その言葉を聞くと、勝家は途端に渋い顔になった。

「できるか! さっきからあたしのむ、胸ばかり視姦しやがるし、信奈様に対する態度がひどすぎるし……」
「まあ、確かに」
「さっきだって仕置を進めても、信奈様は『人間だったら打ち首だけど、あいつはサルなんだから怒ってもしょうがないでしょ』とおっしゃられたんだぞ!?
 サルの奴、絶対信奈様に気に入られてるに違いないッ!! だから、あれだけ言いたい放題言っても打ち首にならないんだ! くぅぅぅッ……悔しいッ!!」
(要するに、良晴さんが妬ましいのね)

どうも勝家は下戸の上に絡み酒らしい。
相手にしたくなかった太助は、勝家が良晴と話している信澄の方に絡みに行ったすきに、こっそり逃げ出した。
そして、良晴の部屋から出たところで、一人の女性と出会った。
年齢は二十歳ほど。穏やかな雰囲気と利発そうな見た目は「できる委員長」っぽいイメージがある。

「七梨太助殿ですね? 私、丹羽永秀と申します」
「貴方がですか、噂は聞いていますよ」
「あら、どのような?」
「信奈さんの小姓あがりで、信奈さんにとっては姉のような女性。温厚で主君の決定に口をはさむことはほとんどない。諜報を担い、物事を採点する癖がある。
 こんなところでしょうか」
「よく調べていますね、六十点」
「付け加えます。採点基準は結構厳しい。で、どのようなご用件でしょうか?」
「はい。信奈様が貴方とサル殿をお呼びです」
「俺と良晴さんを……ですか」
「どうやら、貴方は心当たりがあるようですね」
「……わかりました。すぐにお伺いいたします」


第5話「契約と蝮の危機と四つの腕」

本丸の信奈の部屋。
二人は下座に腰を下ろし、月をじっと見つめる信奈を見ていた。
地球儀を懐に抱きながら、何かを呟いている。耳を済ませると「下天の内」「滅せぬ者」などの言葉が聞き取れることから、どうやら「敦盛」を繰り返し歌っているようだ。

「な、なあ信奈。俺達に用事って、何なんだ?」
「ん? ああ、あんたたち……いたの?」

不意に我に返り、視線を自分に戻した信奈を見て、良晴はこれ以上なく胸を高鳴らせた。
元々、月明かりに照らし出された純白の素肌と整った横顔に見入っていたところに、その凛とした眼差しを向けられたのだから無理も無い。

(こいつの瞳、輝いて、綺麗だ……で、でも惚れねえぞ! こんな可愛くねえ凶暴女、俺の趣味じゃねえんだ! どうせ、口を開けば台無しなんだからな!)

ここまで来るともはや子供じみた意地で、自分に言い聞かせる良晴。

「いやいや、長秀さんから俺達を呼んだと聞きましたよ?」
「そうだったわね。サル、あんたはこの世界が球の形をしていることや、南蛮の場所を知ってるって言ってたわよね?」
「ああ、それがどうかしたか?」
「私ね、あんたの言ってること、全然信じてなかったけど、今は信じてもいいかなって思ってる」
「そりゃまたどうしてだ?」
「一つは、蝮の考えてることを当てたってのがあるけど、ただのはったりかもしれなかった。でもあんたが示した南蛮の場所はだいたい正解だった」

それから信奈は語った。
この地球儀は、彼女が幼い頃父が連れてきた南蛮の宣教師にもらった、自分の宝物であること。
日本は地球の上ではちっぽけな島国に過ぎず、自分たち日本人はその上で殺し合っていること。
南蛮はいずれ、強大な武力と経済力で日本を飲み込んでしまうだろうこと。その原動力は国王たちの「黄金の国ジパングを手に入れたい」という欲望であること。
色々なことを宣教師から教わり、何時しか、天下を統一した後、鉄鋼の船を作り、その船に乗って七つの海を、世界中を巡り、
日本人の誰もが見たことのない世界の全てをこの目で見てみたい。そう思うようになったことを。

「その宣教師が信奈さんの欲望の原点なんですね……親切な人じゃないですか」
「もう死んじゃったけどね……」
「……すいませんでした」
「どういうわけか、私が好きになって、頼りにした人ってみんなすぐに死んじゃうのよね……。父上もそうだったし、蝮もそうなるかも……。
 私に国を譲るなんて馬鹿なこと言うからよ……」

信奈は寂しげな笑いを浮かべた。
太助は、信奈さんは今、人を好きになることに臆病になっているのではないか。普段の振る舞いの根っこには、そのような心の動きもあるのでは、と思ったが口には出さなかった。

「太助。もしあの時私が勘十郎を斬るなと言わなかったら……どうしてた?」
「斬っていました」

とてもあっさりと答えたため、良晴も信奈も呆気にとられた。

「でも、信じていました。信奈さんは望んでいない。そう信じているだろう良晴さんを。良晴さんなら信奈さんを止めてくれると」

そう、と信奈は返事をすると、良晴の方を向いて尋ねた。

「サル……私が勘十郎を斬ったら、次々と人を斬り続けることになる。そんなふうなことを言っていたわよね?」
「ああ、言った」
「どうしてあんたなんかにそんなことが言えるのかしら。私の心の内があんたに分かるはずないのに?」
「そ、それは、俺が未来から来た人間だからさ。信じろ」

信奈から視線を逸らせず、うろたえながらどうにか良晴はそれだけを言った。

「それじゃあんた、わたしの未来も全部知ってるの?」
「お前の未来は解らない。けど、お前にそっくりの、ある武将の人生なら大体知ってる――そいつは自分に謀反した弟を殺してから、歯止めが利かなくなっちまったんだ。
 心のどこかが壊れちまったのか、なおさら退くことが出来なくなっちまったのかはわからねえけど、そして――」

その時、信奈は指で良晴の唇を抑えて塞いだ。

「それ以上は言わないでいいわ。言ったら殺すわよ」
「なんでだ? 未来が解れば便利だろう?」

解らないらしい良晴に、太助は声をかける。

「良晴さん。未来は誰かが見て、口に出すことで決まってしまうっていう考え方もあるんですよ」
「それにね、自分の未来が解っちゃったら、泣いたり喜んだりしながら生きてる意味なんてなくなるじゃない?」
「お前の未来じゃないさ。俺が知ってるのはお前によく似た別人の未来だけだ。それも、大勢が知ってるような、本当に大体のことぐらいさ」
「それでも、私に未来を教えたら殺すから。太助の考え方で言うなら、あんたにあたしの未来を決められるなんてまっぴらごめんだわ」
「そうか。……そうかもな。(確かに他人の言いなりになったり、他人の掌の上で生きるなんてどこからどう見てもこいつらしくねえ)
 わかった。安心しろ、もう言わないから」
「あら、うまくわたしを操ろうとは思わないの?」
「お前を操って黒幕をやれるほど、俺は凄くねえよ。何せ、この世界の天下を統一できる奴はお前だけだ。だからさ、この世界の人間じゃない俺はお前の夢に賭ける。
 俺に分かる範囲で、お前が道を逸れそうになったり、また人間を止めそうになったら、また俺が手を伸ばす。お前には、俺が知っている未来についてなにもしらせない。それでいいだろう?」
「いいわよ。それじゃあ、正式に主従の儀式をしましょうか。ま、何時までもサルってのも可愛そうだし、なんやかんやで、功績だけならかなりのものだもの」
「アホな失敗で不意にしちゃいましたけどね」
「うるさいぞ太助! で、儀式ってどうやるんだ?」
「そうね。せっかくだから南蛮風にしましょうか。はい、わたしの手に忠誠の口づけをするの」

そう言って乱暴に手を差し出す信奈。

(これ……お姫様への忠誠を誓う騎士……だよな? まあ信奈は姫武将なんだからこれで合ってるんだろうが……。て言うか、俺なんでこんなにドキドキしてるんだ?)
「相良良晴。わたしを主と仰ぎ、忠誠を誓いなさい」
「お、おう。わ、わかった……」

月光のせいだろうか。信奈が本当のお姫様に見えてしまった。だからかどうかは分からないが、良晴はいつものように逆らえなかった。
そのまま跪き、手の甲に唇を押し当てる。

(すべすべして柔らかい……こんな指で刀を握ってるのか……)
「私への忠誠を、永遠に誓う?」
「…………」

誓う、と答えてしまったら、ずっと信奈と生きていかなければならない、そんな気がした。

「帰り道が見つかるまで、な」

そんなもの分かるはずもない。それでも、一生懸命に強がってみた。

「……そう。ならそれでいいわ。それまでは」

太助は目を閉じていた。
望む誓いをくれなかった良晴を、信奈がどんな顔をして見ているのか、見ない方がいいと思ったからだ。

「ああ。俺はお前のもう一つの腕だ。絶対にお前の夢を叶えてやる」
「じゃあ、私の夢がいつまでも叶わなければ、帰れないわね」
「……そうだな」

どうも、信奈の手を握っていると緊張して仕方がない。なんでだろう、と良晴は思った。

「太助、あんたは?」
「……俺は、信奈さん……いえ、信奈様に忠誠は誓えません」
「どうして?」
「俺はずっと旅をしてきました。この尾張に来たのもその為です。ですが、一緒に旅をしていた家族と逸れてしまって……」
「そんなことがあったのか……」

良晴は驚いていた。
太助がなぜあんなところにいたのかとか、深く考えていなかったが、そんな理由があったとは。

「家族を探し出して、役目を果たす。それが終わったらまた旅に出ることになります。だから、忠誠は誓えません」
「そう……仕方ないわね」
「忠誠は誓えません……ですが……」

そこで太助は、ニヤリと笑った。

「友達を助けるっていうのは、ずっとやってきたことですから、今回もやるのはやぶさかじゃありませんよ?」
「太助……!」
「信奈さん。俺と貴方は、友達ですか?」

信奈もニヤリと笑った。

「この織田上総介信奈と対等の友人になろうなんて、あんたもいい度胸してるじゃない」
「じゃあ、こっちも友人の儀式をしましょうか」

そう言って太助は手を差し出し、信奈もその手を握り返す。

「で、こうやって、こう、こう、こう!」

そして、もう一度握り、拳を三回ぶつけ合う。

「これで、俺と信奈さんは友達です。これからもよろしく!」
「ふふっ、あんたもなかなか面白いわね。……そう言えば、あんた達はどうなの?」
「え?」
「あんた達の夢よ。奉公には御恩を返さなきゃ。あんた達の夢、私が叶えてあげてもいいわよ」

夢、と聞かれて良晴は少し考えた。
元の世界では、普通に就職して、普通に結婚して……というささやかな夢を持っていたが、それはもうかなわないだろう。
なら、この世界での俺の夢は……。

「俺の夢は『俺の大切な人の誇りになること』その人が、俺と知り合えたことを自分にも他人にも自慢できる。そんな人間になることです」
「そうなの。じゃあ、あたしが叶えたんじゃ意味が無いわね。サル、あんたは?」
「俺の夢は……そうだ! モテてモテてモテまくる! これしかねえ!」
「は、はあッ?」
(あ、そう言えば藤吉郎さんとそんな話題で盛り上がってたな)
「乱世に男として生きる以上、女の子をいっぱい侍らせていい気になる! やっぱこれっきゃない! しかーし! 俺は、量はもちろん、質には特にこだわる男!
 数を揃えるだけじゃ満足しねえ、天下一の美少女を嫁としてイチャイチャしまくりたいッ!」

そろそろ黙らせるか……。
太助がそう思ったとき、信奈は良晴の手を振りほどき、その手で良晴をぶん殴った。
「うおっ? 何すんだよッ」
「あ、あ、あ、あんた! 言うに事欠いて天下一の美少女を嫁にするですってぇ!? 私とあんたじゃいくらなんでも身分が違い過ぎるじゃないのッ! あー、気持ち悪いったらありゃしない!」
「え? 待て待て、俺はあくまで素直に自分の夢を言っただけだし、特に誰と決めてるわけじゃないぞ?」
「天下一の美少女なんて、このわたしに決まってるじゃない! 他にいるならお目にかかりたいわッ!」
(あれ、この前まで『尾張一の美少女』とか言ってたって聞いたけど……?)
「うッ! あんたの無気味発言のせいで、全身にサブいぼが立って、腹の底から熱いモノがこみ上げて……!」
「やめてー! 俺のナイーブハートを傷付けるのはもうやめてー!」
(やれやれ)

太助はこっそり部屋を去った。
どうせ、この後はいつもの追いかけっこになるだろうと思ったからだ。
そして、どたどた走り回る音が聞こえてくるあたり、本当にそうなったようである。


それから一週間後、信奈にとって最悪の事態が起こった。
道三の息子、斎藤義龍がとうとう謀反を起こしたのだ。
元々、土岐家から美濃を奪った道三は、豪族たちとの折り合いが悪かった。そこへ、美濃を信奈に譲ると宣言したため、彼らの不満は爆発し、義龍を担いで、道三に反旗を翻したのだ。
道三の主城、稲葉山城は難攻不落の名城だったが、山城だったため、道三は冬の間は寒さに耐えかねて、稲葉山城を家臣に預けて、麓に降りていた。
義龍はこの家臣を抱き込むことで、稲葉山城を奪い、道三を上下から挟撃。
道三は長良川に陣を張り、十倍以上の兵力を持つ義龍軍に野戦を挑んでいる……。
というのが、美濃から久しぶりに戻ってきた五右衛門の報告だった。

「無茶だ! 何で籠城戦をやらねえんだ! それじゃみすみす死ぬようなもんだ!」
「左様。道三は死ぬ気でござる」
「何でだ!?」
「一つは、自分を救出しに来た隙に、今川義元が上洛の為に尾張に攻め入るのを防ぐため。もう一つは、自分が六十を超えた老人だからですよ」
「? 義元の方は分かるけど、老人だからってのはどうしてだ?」
「この時代で六十三となれば、いつ死んでもおかしくありません。ここからが大事ですが、信奈さんが援軍を出し、道三殿と合流すれば、かなりの犠牲は出るけど義龍には勝てるでしょう。
 でも、義龍の死後、道三殿が寿命を迎えてしまったら美濃を纏める人間がいなくなってしまいます。そうしたら、どうなると思います?」
「ええと……」
「美濃を何者かに奪われてしまい、信奈殿が美濃を手にするきかいがましゅましゅとおのいてちまわれるでごじゃるな……あうう」
「道三殿は、信奈さんが援軍を出せば自分から、出さなければ、このまま戦って討ち死にするつもりですよ」

そこまで聞くと、良晴は立ち上がり駆け出していた。

「これぐらいのこと、信奈さんならすぐに気がついて、援軍は出さないって決めますよ。本心は別にしてです」
「だからって俺が黙っておくには重要度が大きすぎるだろうがッ!」
「おやおや。留守にしていた間に随分とあの姫に情が移りましたな、しゃがらうじ」
「あんな凶暴性格醜女に惚れるわけがないって、しつこいぐらいに本人が言ってるんだ。そういうことにしといてあげましょうよ、五右衛門さん」
「ふふふ。ではそういうことにしておくでござる」
「お前ら好き勝手言い過ぎだ!」
「まってください良晴さん。三分でいいので、少し真面目な話をして、報告はその後にしてくれませんか?」

振り返ってみた太助は、良晴が初めて見る真剣な顔つきをしていた。


そして、良晴は本丸で勝家とあやとりに興じていた信奈の下へ直行し、道三の現状を包み隠さず報告した。
直ちに勝家だけではなく、長秀をはじめとする重臣たちが集められ軍議が開かれることになった。

「援軍は出さないわ」

開始直後、参加者たちへの事態の説明が終わると同時に、信奈はそう言い放った。

「出陣なさらぬのですか?」
「そうよ六。駿河の今川義元、何時でも上洛の軍を起こせる状態だわ。こんな時に美濃への援軍なんて出せない。それに、美濃の国主でなくなった蝮にはもう利用価値がないもの」

このまま見捨てましょう、と信奈はけろりとした顔で言った。

「何よ、不満そうな顔じゃない。私が金切り声で叫んだり、情に流されそうな素振りでも見せたらあんたは満足するの?」
「いや、そういうつもりじゃねえよ。ただ、一つだけ教えて欲しいんだ。お前がそう決めたのは、援軍を出せば道三が即座に討死するつもりだからなのか?」

その瞬間、信奈が一瞬硬直した。

「……太助ね?」
「それはどうでもいい、答えてくれ、援軍を出せないのはそれもあるからなのか?」
「答える必要はないわ」
「答えろよ」
「うるさいわね! 私が必要ないって言ってるのよッ! 聞き入れなさいよサル面冠者!」

良晴は気付いた。
怒鳴りつける信奈が手に持った扇子が、微妙に震えていることに。
さらによくよく顔を見れば、唇の端が引きつっている。あの時と同じ、無理矢理に情を切り捨てようとしているだけだ。

(太助の言った通りだ。信奈は道三のやろうとしていることを全部理解している。でもそれに答えようとすれば、やっと出会えた理解者を失うことになる)
「だいたいねサル。こっちには『美濃譲り状』があるの。義龍を討つ大義名分はちゃんとあるのよ」
「そうか……ところでどんなことが書いてあったんだ?」
「さあ?」
「って、読んでねえのかよ!?」

どうせ美濃を譲るって内容が事務的に書かれてるだけでしょ、と信奈は書状を広げる。
勝家と良晴も、信奈の左右に侍って譲り状を覗き込む。

「もしかして『美濃は譲らないよ〜ん』とか書いてるんじゃないだろうな、この期に及んで」
「あ、あたし、漢字が苦手で何が書いてあるやら……でもサルも読めないだろうから気にしない!」
「残念だったな。俺は読めるぞ」
「ええっ!!? あたしの知能ってサル以下ッ!?」

だが、譲り状は譲り状ではなかった。それどころか斎藤道三の書いたものだと信じられないような、内容だった。


信奈殿のことを、実の娘よりも愛おしく思っている。
我が生涯は既に天下統一の夢の途中で朽ち果てようとしているが、信奈殿に出会えて己の夢にまだ続きがあったことを知った。
国取りに賭けた人生が徒労でなかったと知り、これほどの幸せは無い。
許されるなら儂が半生をかけ、丹精して作り上げたこの美濃の国を信奈殿に進呈し、我が軍略と政略の全てを信奈殿にお教えし、そなたの天下統一を陰からお支えしたい。そのような余生を過ごしてみたくなった。
だがもしも、十中八九そうなるであろうが、美濃で異変が起きた時には、この年寄りのことは忘れ、自分の手で美濃を切り取るように。
この道三の娘を任じるのであれば、天下の夢を継ぐというのであれば、決して、感情に流されて援軍など出してはならない。
ただ、我が愛娘の帰蝶を妹として慈しんでいただければそれだけでよい。
儂は老人であり、そして人はいずれ死ぬ。別れは必ず訪れる。しかし、潰えようとしていた夢の続きを見つけることが出来た。
誰にも理解してもらうことなく、ただの悪人として生を終えずともすんだ。であるから、自分の魂はもう救われた。
これで十分である。
願わくば、そなたの夢を理解してくれる若き者に、そなたが出会えることを祈りつつ、これより冥府へと参る。←譲り状の内容は太字


「爺さん……」

信奈が震えながら譲り状……否、遺言状を読み終えるのと同時だった。

「美濃より、斎藤家の姫が落ち延びて参られました!」

乳母らしき老女が、信奈の足元に付して一礼する。

「約束の妹をお送りする、援軍を送っても送らないでも、娘が駆け付けても、駆け付けなくとも戦は負ける。道三より言伝を預かって参りました」

信奈が、魔王の仮面を被れたのはそこまでだった。

「ぜ、ぜんっ、ぜんぐんっ、ぜんぐんでっ……!」

体の奥底からこみあげてくる慟哭を押さえつけようとしながら、全軍で美濃へ、そう下知しようとした矢先だった。
勝家が、今の信奈の精神状態を危険と判断して、脇腹に拳を叩き込むよりも早く、良晴は信奈の両手を握りしめていた。

「そんな命令する必要はねえ信奈。お前がするのは『蝮を助けて』っていう『お願い』だ」
「そんなことできるわけないじゃないッ! 東に今川義元の大軍を抱えているのよッ!? それに蝮だってそんなこと望んでないわッ!」
「ああ、だから軍団なんていらない。少数の決死隊を出して、道三を救い出す!」
「それを考えなかったと思うの!? 六を尾張から動かすわけにはいかないし、だったら、あたしは誰に『死にに行け』って言えばいいのよッ!?
 私の我儘で、そんなこと言えるわけないじゃないのッ!! あたしの腕は、二本しか無いし長くもないのよ……!」
「いや、お前の腕はまだここにあるだろ?」

そう言って、良晴は自分の腕を叩いてみせる。

「独りじゃ届かない腕だって、誰かとつなげば長くなる。お前だけじゃ届かないなら、俺も太助も手を伸ばす。お前が救えないなら、俺達が救ってやるさ。
 ……あの夜、いっただろう? 絶対にお前の夢を叶えてやる。俺が、俺達がお前の希望だ」
「サル……お前そこまでの覚悟を……」

良晴の覚悟に感じいる勝家。
そして、良晴は太助との会話を思い返していた。


「道三を説得する!? お前ひとりでか!?」
「はい」
「そりゃ、討死を決めた道三を助けて、義元にも備えようっていうならそれしかねえだろうけど……」
「単騎では生きて帰るのは不可能でござる」
「だから、良晴さんは、援軍を出すように信奈さんを説得してください」
「まてよ! 援軍を出せば道三も尾張も危ないって言ったのはお前だろ!?」
「ええ。ですから援軍を出さないのは理に適っている。ですが、出しても理に適うんですよ」
「??? どういうこった?」
「ふむ、織田信奈は理で動く。故に理を説けばあるいは……ということでごじゃるか」
「はい。ここで援軍を出したという事実を作れば、織田にとって二つの利になります」
「それはなんだ?」
「それは……良晴さんが自分で考えてください」

ガクッ、と肩透かしを食らう良晴。

「な、なんだよ、教えてくれてもいいじゃねえか」
「いや、意地悪じゃありませんよ。ただの言葉じゃあ信奈さんの説得なんてできません。信澄の時みたいに、『心』を込めた言葉じゃないと『心』は動かせないんです」
「……俺が自分で考えた言葉じゃなけりゃあ、駄目ってことか」
「と言っても、良晴さんには少し難しいでしょうから、ヒントだけは出しておきます」

そう言って太助が出したヒント。

一つ、信奈と道三は同盟関係にある。
二つ、五百挺の種子島は、いまだ戦に使われたことが無い。
三つ、織田信奈は人間としても、戦国武将としてもまだ無名の存在である。

(考えろ、考えろ……。太助が言いたかったことは……!)

考えていて引っかかったのは、やはり三つ目だった。

(信奈が無名ってのがヒント……、つまりこの戦いで信奈の評価が決まるってことだろ? それを踏まえると、一つ目と二つ目のヒントは……そうか!)
「いいか信奈。蝮のおっさんに援軍を出すのは、尾張にとっても二つのメリットがある」
「目里斗ってサル語の意味は解らないけど、言ってみなさい」
「一つ目。お前の言うとおり、今の尾張は今川義元のせいで大ピンチだ。そんな状況にもかかわらず、おっさんを助けに行けば、お前は同盟相手を絶対に見捨てない鉄壁の信義の持ち主っていう評判を手に入れられる」
「じゃ、じゃあもう一つはなんだ? おいサル」
「その前に一つ答えてくれ。信奈、お前、義龍と戦って圧勝する自信があるか?」
「あんたあたしを舐めてるの? あるに決まってるじゃない!」
「それがもう一つのメリットだ。お前が義龍に勝てば、お前の強さが尾張と美濃に知れ渡ることになる」
「なるほど。たしかに斎藤義龍も道三殿の息子というだけあって凡庸な武将ではありません。
 その彼に圧勝したとなれば、皆姫様の強さを思い知るでしょう。八十点です。……無論、できるならばの話ですが」

長秀の言うとおり、斎藤義龍は決して凡庸な武将ではない。
そして、今川との戦を考えれば、その義龍に限りなく無傷に近い形で勝たねばならないのだ。

「信奈、お前ならできる。おっさんにも義龍にも、お前の凄さを見せてやればいいんだ」
「…………」

だが、まだ信奈は頷かない。

「そうか……、じゃあいい。お前がどう決めようと、俺は決死隊として道三と、ついでに太助を救いに行くからな!」
「!? ちょ、ちょっと待ちなさいサル! 何で太助が!?」
「あいつは一足先に道三を思いとどまらせるために美濃へ向かったんだよ! たった一人でな!」
「だからあなたも行くというのですか? 織田家の一員となって日が浅い貴方についていくものなど誰も居ませんよ、三点」
「……だからってほおっておけるわけねえだろうが!」

良晴は飛び出した。
太助が向かった長良川の戦場目指して一人でがむしゃらに駆けた。
織田家と蝮と二人の異邦人の未来がどうなるのか、間もなく答えが出る。


後書き
なんか良晴のヒーロー度が上がってしまいがち。
「当たり前の強さ」を発揮させようとしてるからだろうか。


管理人感想

 ダークレザードさんからいただきました!

 原作の流れ通りに起こってしまった美濃動乱。義龍も『信奈』じゃ小物なんだからおとなしくしていればいいものを(マテ

 すっかり太助が良晴の教育係になってますね。
 まぁ、破壊者としての旅を経て人間的にも成長した後ですからこのくらいのことはできるでしょうけど……とりあえず、門矢さんちの士くんやうちのバカ息子のようにひねくれないことを願うばかりです(爆)。