織田信奈の欲望、前回の三つの出来事!
一つ! 津田信澄は、お市姫として浅井家に嫁がされた!
二つ! だが、長政は心から信奈の義弟であることを受け入れていた!
そして三つ!! 六角家を打ち破った信奈は、ついに上洛を果たした!!
時を遡り、お市(信澄)が嫁いできた翌日の北近江にて。
小谷城の山頂にある自分専用の露天風呂にて、長政は心を揺らしていた。
考え事をする時、彼はいつもこの露天風呂に浸かり、孤独になる。
ここには、誰も入れてはならない。入ったものは問答無用で斬り捨てると宣言してあった。
実際、入浴中に背を流すと言って家臣が入ってくることが二回あったが、その二回とも家臣を斬り捨てている。
つまり、彼がこの露天風呂を利用するときは、心の底から一人になりたいときである。
今、思考しているのは「いずれ信奈を裏切るか、赤心から忠実な弟分となるか」であった。
(父は祖父の代から支援を受けてきた、朝倉家との同盟にこだわっておられる。だが、私から見れば朝倉家は既に盛りを過ぎた老大国。
いずれ若々しい新興勢力に滅ぼされてしまうだろう。いや、朝倉もそれが解っているからこそ、浅井家を縛り付けるために父を通して私を利用しているのだ。
クソッ! 七梨太助め、何が父の道具だ、責任から逃げているだ!)
確かに、自分が人質として苦しむことになったのは、父・久政が戦下手で六角に従属するまで敗北を繰り返したためだ。
惰弱な父に任せていては、自分はいつまでたっても六角から自由にはなれない。だから強引に隠居させ家督を奪った。
だが、それでも父は父なのだ。
一度は幽閉で済ましたが、今度は首を刎ねなくてはならない。それだけはどうしてもできない。
(しかし、考えてみれば織田家には信奈殿以外、姫はいなかったはず。ならば、あのお市姫とは何者なのだ?)
昨夜、織田家からこっそり輿入れしてきたお市姫。
洗練された、清楚で可憐な身のこなし、優雅な歩き方、信奈にそっくりな雛人形のように美しい顔立ち。
確かに信奈の妹と言われれば、そう思えるのだがまったく喋らないのはどういうわけか。
おぼこい生娘なのだとしても、父と家臣団との顔合わせの席に置いてさえ、隣に侍っている忍びの娘に代弁させるのはどうだろう。
しかもかみかみで、途中から何を言っているのかさっぱりわからなくなった。
(あんな忍びに喋らせねばならないほど、お市殿は話が苦手なのだろうか。……しかし、何故私はこんなにお市殿の事を気にかけているのだ?)
その時、背後に水に濡れた足跡が。
実際に斬り捨てたため、この露天にはもう家臣は誰も近づかない。
ならば、この乱入者は浅井の人間では無い。
(クッ! お市殿の無言が気がかりで、腑抜けてしまっていたか!)
長政は素早く立ち上がると、手に掴んだ刀を鞘から抜いて、影めがけて斬りかかった!!
「うわあああ! 待ってくれえ! 僕だ! お市御寮人だあ!」
長政は、斬り下げる寸前で刀を止めた。
影の正体は、ただ温泉を見つけてのんびり入浴しに来ただけのお市だった。
が、その声は――いや、それ以前に痩せてはいるが筋肉質の堅そうな体は。
「お……おとこ……ッ!?」
「はーっはっはっは。ばれてしまっては仕方がない。僕は津田勘十郎信澄。姉上の妹ではなく、弟! いやぁ、昨夜は押し倒されやしないかとひやひやしたよ。
しかも君が女人を断っているなどというものだから、衆道だなんだと」
ここで勘十郎信澄は、はたと気づいた。
目の前にいる、浅井長政の体。
柔らかな肌と言い、くびれた腰と言い、何より乳房が膨らんでいることといい。
「き、君は……その体は……お……お……おんなあああああッ……!?!?!?!?」
「み……見るなあッ!!」
そう。浅井長政の、入浴姿を見た家臣を問答無用で斬り捨てねばならない秘事。
竹中半兵衛が、信澄を輿入れさせることに太鼓判を押していた理由がこれ。
彼、いや彼女は、浅井家の『姫』だったのである。
「おのれ、織田信奈。我が秘事を見破って、まさか男に女装させて送り込むとは……負けた。織田信奈……到底私が勝てる相手ではなかった。
この浅井長政。今度こそ、信奈殿に心から降参仕る」
「あ〜いや、姉上はただ……」
一番ばれなさそうな人間を選んだだけなんだ。とは、三つ指をついて頭を下げる長政には言い出せなかった。
「……だが勘十郎信澄、何時までそのむさい身体を私に見せつけるつもりだ! 隠せ、隠さぬか!」
「やや、すまない。これでいいかな〜?」
「ひっ? どうして湯船に入ってくるのだッ!? 手拭いを使えばよかろうッ!」
流石は名うてのアホである信澄。湯に入る以外己の体を隠す方法を思いつかなかったらしい。
「いや〜。驚いた。僕と為を張る女顔の美少年だと思ってはいたが、まさか君が女の子だったとは。しかし、どうしてわざわざ男のふりをしているんだい?
女だてらに家督を継いだ姫大名など珍しくもないだろうに……うちの姉上もそうだし」
信澄が、真顔になった。
「姫と偽って輿入れしたとはいえ、すでに僕らは夫婦。理由を聞いておきたい」
長政は、覚悟を決めて答えた。
長政は、幼き頃より六角承禎の人質として観音寺城に住まわされていた。そして六角は年頃どころか、年端もいかぬ娘にも手を出す歪みきった好色漢。
故に長政の母は、彼女を守る為に、猿夜叉丸という名前で男子として育てた。だが成長するにつれて六角も正体を見破り、寝こみを襲われかけること数度。
斬るのは容易いが、母を巻き込むわけにもいかず、最後には、美貌を利用して六角家の女どもを次々と誑し込み、観音寺城を脱出し、小谷城へ戻った。
そして浅井家の家督を継いだのだが……。
「どうしてその時に晴れて女だと名乗らなかったのかな?」
「……父に反対されたのだ。故に、私は女を捨てた。女としての幸せを諦めたのだ。……七梨太助が見破った通りに」
浅井久政はかたくなな人間で、当世流行の姫大名など認めぬと言って宣言した。
自分を隠居させて家督を奪うのであれば、このまま男として生きよ。女に戻りたいのであれば、お前に浅井家は継がせぬ、朝倉家か六角家から養子をとる。
女と家督、どちらかを選べと、長政に選択を迫ったのだ。
「それは絵に描いたようなバカ殿だなあ、長引く戦国の世でいつも人手不足の武家に、男も女も無いじゃないか〜」
「古の昔……大方神話の頃だろうが、武家の頭領は男が務める仕事であったと父は言うのだ」
「幾らなんでも、古すぎるなあ……」
ともあれ、六角のせいですっかり男嫌いになってしまったこと。男装すれば絶世の美男子になれて、女の心を容易く奪えるという利点もあったので長政は男として生きることを選んだ。
「それじゃあ、利用するだけ利用して女を捨てるという噂が立っていたのは……」
「この通り、私は女を抱けぬ。その代わりに生殺しのように弄ぶ無体な真似もしたくない。故に、かたくなに迫られた時には無言で立ち去る他なかったのだ」
「なあんだ。そうだったのか、はははははは」
(能天気に笑う……。だが、私の苦しい身の上話を笑顔で全部受け入れてしまうあたり、頼りないように見えて、大人物なのかもしれない)
「あれ? ということは、男女が入れ替わっているとはいえ僕と君は男と女。しかも尾張と近江を代表する美男美女の、実に似合いの夫婦じゃないか」
「か、肩を抱いてくるなッ!」
「やあこれは失敬。しかし猿夜叉丸君。折角これほど美しい姫君に生まれながら、ずっと男のふりをしているなんてあまりにも勿体無い話じゃないか。少なくとも、僕は嫌だ」
「……仕方がないではないか。夢の、ためだ」
「夢? それはひょっとして、あの時七梨君に言った……」
「そうだ。『二度と人質になどならぬ強さが欲しい』その為には自分を偽ってでも力を得なければならなかった。だから……」
「もっと欲張ってもいいんじゃないかなあ」
「え?」
「今のはサル君の言葉だがね、ははは……。よし決めた」
信澄は、にこやかに頷いた。
「僕と君が二人きりでいる時は、女の子に戻りたまえ。僕は君をお市姫と呼ぼう。僕のことは勘十郎でも信澄でも、適当に呼んでくれたまえ」
長政を苦しめていた悪夢の影は、瞬時に吹き飛ばされていた。
このちょっとゆるい男一人の手で、こんなにもあっさりと。
(女は美少年に弱い……。やはり私も女だったのだな……)
長政は聡く、自分の心に対して素直だったから、自分が恋をしたのだと気付くまで、時間はかからなかった。
が、さすがに信奈たちに話すのは、恥ずかし過ぎたのであった。
第13話「『お市』と関白と四百年の呪い」
京を行軍した信奈は、九条の東寺に入った。
日ノ本の神事を司る由緒正しい「やまと御所」から今川義元への将軍宣下を取り付けるには時間がかかる。
このやまと御所には、神代より脈々と続く姫巫女がおり、姫巫女は御所にて神事を司り、実際に武家と折衝するのは公家の面々である。
平安時代には公家が現世の政治を司っていたが、その後、武士が台頭して実権を握った。
ちなみに信奈は、公家が苦手……というよりも昔から武士を利用し、血を流すことなく権威を保持してきた連中、と毛嫌いしている。
と、信奈は京料理に不満をたれながら良晴に語った。
京の薄味料理は、ミソラーぞろいの織田家には物足りないらしい。
例外は、内心味噌尽くしに飽き飽きしていた、良晴、太助、翔子の現代人組である。
そこに、道三が腰の痛みも忘れて、息を切らして「助けてくれ」と情けない声をあげながら駆け込んできた。
「どうしたの、蝮?」
すると、道三の背後から一斉に数多くの老婆が「恨めしや〜」と声をあげながら雪崩込んできた。
聞けば、道三は京の油売り時代「松波庄九郎」を名乗る、水も滴る美男子だった。
若い女商人であった彼女たちを口説いて、軍資金を調達して、二度と京へ戻らなかったそうである。
「返せ〜、金を返せ〜、わ〜か〜さ〜を〜か〜え〜せ〜」
「ひいいいいい! 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏! 誰か助けとくれ〜!」
だが、信奈たちは誰も動かない。
良晴も、信奈たちが怖くて動けない。
「し、七梨殿! そなたなら儂の苦境に同情してくれるじゃろう!?」
「道三殿、責任は取りましょう?」
「う、裏切者ぉぉぉぉ〜」
哀れ道三は老婆の波に飲み込まれていったのであった。
それを見た良晴は、女の子に恨まれない綺麗な別れ方を勉強しないとな! と張り切っていた。
「何を馬鹿なことを言ってるのかしら」
翌日、信奈たちは畿内に残る三好の残党を討つべく出陣し、光秀は京に残り、御所との交渉に苦心していた。
そして、良晴と太助はやまと御所の警備を務めていた。
応仁の乱以来繰り返される戦乱によって、由緒あるやまと御所も壁が無残に崩れ落ちたままというありさまだったが、伝統と格式、そして何よりも
この国の神事を統べる姫巫女様を擁しているという一事を以て、公家たちは武家に対して官位役職を与えるという権威を持ち続けていた。
「御所の警備だって重大な職務だってのは分かるけど……あ〜あ、俺も勝家と一緒に摂津へ攻め込みたかったぜ……」
「良晴さん、たいして槍働きできないでしょうに」
「いいだろ、夢見たって。それにしても遅いよなあ」
「遅いって……将軍宣下ですか?」
「ああ。いつまでも尾張美濃を留守にしたままにはできねえだろ? とはいえ、十兵衛ちゃん以外に公家衆と付き合える教養人は織田家にはいないしな。のんびり待つか」
「はいはい(……のんびり待っても、いい返事だけは帰ってこないだろうけど)」
ふと、太助は幼い女の子が、ぽつん……と立っているのを見た。
髪は禿。白と赤が対照的な巫女装束。
まつ毛が長く、瞳の大きな綺麗な顔立ちをしているが表情は乏しい。
「……(くいくい)」
「何だい? お嬢ちゃん」
女の子は、崩れた御所の壁の隙間をじっと見ている。
「入りたいのかい? ごめんな、ここにはとーっても偉い人が住んでいるんだ。見つかったら怒られるぞ」
「……」
女の子は太助の顔をじっと見つめる。
すると、ねねを思い出したのか、良晴が「特別だぞ」とうなずいて立ち上がる。
壁の前に連れてきてあげたが、女の子には壁の裂け目まで視線は届かなかった。
「……」
言葉は無いが……、良晴は何となく、「高い高いして」と言われた気分になり、女の子を抱き上げて、御所の庭を見せてやる。
「……あ……」
「ん? なんだ?」
御所の庭には、一本の巨大な杉の木が屹立していた。
太い幹に注連縄が施された、とんでもなく高い杉だ。
(あれ? 注連縄が施されているってことは、この世界の御所は神のおわす場所とされているってことか?)
そして、枝葉に白い凧が一つ、引っかかっていた。
「……」
「ああ……もしかして、あれを取ろうとしていたのか? 良し、俺が取ってやるよ」
「待ってください。勝手に入るのはまずいんじゃないですか?」
「そうかもしれねえが……この子は問題ないって言ってるぜ?」
「言ってるぜって……喋ってないのにわかるんですか?」
「あれ、そう言えば不思議だな。何かこの子の考えていることがわかる気がするんだよな……。はっ? もしかしてこの子は我が相良家の遠いご先祖様?
いやでも相良家って確か九州の大名だったよな?」
「あーはいはい、わかりました。取るのは俺が行ってきます。良晴さんは、御所の外で待っていてください」
太助は、御所の庭に入ると、するすると大木を登って行き、頂上の凧を手に掴んで、するすると降りてきた。
「はい。次からは気を付けて遊ぶように」
そう言って、女の子に、凧を手渡す。
その時、偶然女の子と手が触れあった。
「……あ……」
「ん?」
女の子は、凧を受け取ると、庭の奥の方へと走って行った。
太助は追いかけようとしたが、建物の奥から「何者じゃ」と騒ぎ立てる声がした。
「おっと、不法侵入で捕まる気はありません、よッ!」
太助はひらりと、壁の隙間から脱出した。
だが、抜け出たすぐ横には牛車が止まっており、やんごとなき公家が降りてくるところであった。
「む? 貴様、何者でおじゃるか」
年齢は三十くらい。平安貴族風の服装に、お歯黒、白塗りの顔に眉をかいている化粧。
どこからどう見ても、かなり身分の高い公家であった。
「失礼しました。私は七梨太助。こちらは相良良晴。両名とも、織田信奈様より御所の警備を仰せつかったものです」
「ああ、尾張の田舎侍でおじゃるか。ふん、藤原家の氏の長者にして、関白たる、この近衛前久を知らぬわけでおじゃる」
太助は、彼の名前に聞き覚えがあった。
近衛前久といえば、三好・松永に協力して足利吉栄を将軍と認め、後に信長と親交を深めたとされている男。
関白職にありながら上杉謙信の関東平定を援助したと伝わる、武闘派の公家。
「蛆の蝶蛇? 鵺の親戚かなんかか?」
が、良晴にとっては「誰だそれ?」程度らしい。
「どんな漢字を思い浮かべたんですか。士族の中で最も官位の高い人が付く役職ですよ。つまり、この人は藤原家で一番偉いんです」
「その通りじゃ! 何せ麻呂は関白でおじゃるからな!」
「へえ〜。なんか知らんけど偉そうだな」
「良晴さん、あんたね……」
「な、何だよ。だって俺、関白とか言われても、藤吉郎秀吉のおっさんしか思い浮かばねえし」
戦国マニアを自称するにしては酷過ぎる発言をする良晴に、太助は思わず頭を抱えた。
「ほ、ほ、ほ。流石はサルじゃ。尾張のうつけめ、どこのサルの骨とも知れぬ者と猿回しを御所によこすとは、所詮は田舎者じゃの。
織田信奈に伝えておくでおじゃる! 尾張のうつけごときに負けた今川なんぞの幕府など認めぬでおじゃる! 考えても見よ。足利幕府があれほど堕落
しきっておったが故に、京の都は戦火に包まれ、麻呂の荘園は悪党共に奪われ、御所はこのように荒れ果てたでおじゃる! もはや乱暴な武家どもに日ノ本の統治は
任せぬでおじゃる。この関白たる麻呂自らが姫巫女様の下で新たな政治を始めるでおじゃる」
居丈高に威張り散らす前久に、良晴はカチンときた。
「幾ら戦国時代の公家とはいえ、威張り過ぎだぜ! 信奈を田舎者扱いしやがって、誰が荒れた御所を復旧させようとしてると思ってるんだ!」
「そのような仕事は公家に仕える武家として当然の務め、感謝する必要などないでおじゃる」
「こ、この寄生虫め……!」
一発殴ってやろうと拳を固めた瞬間、太助が前久の前に立った。
「確かに俺達は田舎者です。前久殿たちと比べれば教養には天と地ほどの差があります。ありますが……」
そこで言葉を切り、ご満悦とばかりに笑みを浮かべていた前久に向かって言い放った。
「だからこそ、堪忍袋の緒が切れれば何をするか解りませんよ? 何せ教養が足りませんからねえ、朝敵になるようなことでも平然とやってのけてしまうかも」
流石は、世界の破壊者と呼ばれた男だけあって、脅し方もすごく道に入っている。
近衛前久は「まさか、いやでもひょっとしたら」と考えて恐ろしくなったのか、さっさと御所に逃げ込んでしまった。
その夜、九条の東寺に戻ってきた信奈は、味噌料理をほおばりながら愚痴を零していた。
岐阜を出立する際、御所から内諾を得ていたのも関わらず、関白・近衛前久の一存で将軍宣下の議が中断されたからである。
ちなみにこの味噌料理、京最高の料理人に銘じて無理矢理作らせたもので、料理人は料理を運ぶ際、男泣きしていた。
「私も待ちかねましたわ。信奈さん? いつになったら私将軍になれますの?」
「うっさいわね。自分の事なんだから、少しは妙案出しなさいよ」
「私、難しいことを考えると頭が痛くなりますの。現実の政について頭を悩ませるなんて、風流ではありませんわ。そういうのは、家来が考えることですもの」
「……義元おねーさんは長生きするよ」
「またしても味噌三昧の日々に逆戻り……あー、薄味料理が食いてー」
「サルはどうでもいいとして、問題は近衛前久よ。義元の将軍宣下以外にも、畿内にいる内にやることやって、武田信玄に備えないといけないのに。第一――京の都は、私何だか苦手だわ」
信奈は言った。
どことなく気持ちが悪いというか、力が吸い取られていくような、何か恐るべきものが潜んでいるような感覚がする、と。
南蛮流合理主義者の信奈にしては、らしくない言い草だった。
「信奈様は武家の頭領ですから。古来、この京の都に本拠を置いた武家は様々な災いを受けてきているんです」
「確かに、公家を真似て政を行った平家、その平家を追い出した木曽義仲と源義経。
最後に残ったのは関東から動かなかった源頼朝だったし、室町幕府も三代・義満の死をきっかけに屋台骨が揺らいで、ついこの前滅んだからな」
「京に入った武家に災いが降りかかる? それこそ不合理ね」
「でも信奈さん。この平安京が築かれた時代、陰陽師は今よりずっと力を持っていました。そして半兵衛さんもその陰陽師。京の裏をよく知っています。聞いておいた方がいいのでは」
そして、半兵衛は語った。
平安京は元々怨霊から御所を守る為に建造された怨霊封じの都であった。しかし、今から四百年ほど前、崇徳上巫女が保元の乱に敗れて讃岐へ流された際
「我願わくば日本国の大魔王とならん」と誓い、日本とやまと御所に呪いをかけた。怨念のあまり天狗と化した彼女は自らの舌を噛み千切った血で
「皇を取って民と無し、民を皇となさん」――即ち、やまと御所の貴族たちから権力を奪い、民を王にしてやるという呪詛の言葉を書いたと言われている。
それを証明するかのように、崇徳上巫女の死後、御所と藤原家は急激に没落し、平家に政権を奪われてしまった。
これだけなら偶然で片づけられるが、平家の追い落としを図って御所が源氏を担ぎ上げた結果、源氏は鎌倉幕府を開き、承久の乱において御所側は敗北。
姫巫女は島流しにされ、御所の権威は完全に失墜。民衆も崇徳様の怨霊の祟りじゃと恐れるようになった。
そしてそれからも、元寇、南北朝の乱、応仁の乱――と、京を襲った大乱は全て崇徳上巫女の没後百年周期で起こっている。
そして四百年目の今年。公家衆は、信奈こそが祟りを為しに来た怨霊の化身だと恐れ、怯えている……。
「ふん。まだ何も起こってないのに、随分迷信深い連中ね。足利幕府は滅ぼされちゃったけど、御所にとってはおめでたい話でしょ?」
「はい。私もそう思います。おそらく信奈様がそこの義元様と行われた『桶狭間の戦い』が、この国にかけられた呪いを解く最初の一撃になったのではないかと思います」
怨霊の話を聞いて、涙目でがくがく震えていた義元は、その言葉を聞くなりぱっ、と笑顔になって、ふんぞり返って高笑い。
「あらあらまあまあ。私がこの身を犠牲にして崇徳様の呪いを解いたと、そうおっしゃるのね、半兵衛さん?」
「い、いえ違います……」
さらに半兵衛は続けた。
戦乱が終わらないのは、四百年前から人々の価値観が変化していないからだ。
特に京は、新しい文化や考えを取り入れずに、全ては崇徳様の呪いのせいであり、人間の力ではどうしようもない……と心の底から信じ込んでいる。
戦乱の世を治めるには、まず人々の心を変革していかねばならない。というのが半兵衛の考えであった。
「成程。『武家とは京に祟る為の存在である』という考えが、武家が京に足を踏み入れるたびに乱を広げるような振る舞いをさせている。
その原因は、人々の心に巣食っている『崇徳様の呪い』っていう『絶望』や『不安』からだってことだな」
「そういう無意識の意識って、なんていうのか逆らえないものがあるんだよな。あたしも経験あるからわかるよ」
「人々が信奈に熱狂してるのは、強大かつ伝統を誇る今川を、新興の身で倒す――っていう『奇跡』を成し遂げた信奈を自分たちの『最後の希望』
だって信じて、新しい変革の時代をもたらしてくれるって感じてるのかもしれねえな」
「ってサル。珍しく太助みたいな事言ったのなら、京の人心を一新し、崇徳様四百年の呪いとやらを吹き飛ばす妙案を出してみなさいよ。未来人なんでしょ?」
「そんなの平成生まれの俺に解るわけねーよ!」
「ま、今はともあれ、義元の将軍宣下です。さて、近衛前久はどんな無理難題を出してくることか……」
「ちょ、不吉なこと言うなよッ」
間もなく、続々と任務を終えた武将が報告に舞い戻ってきた。
勝家は、摂津を平定。落とした諸城は美濃三人衆に任せて帰還してきた。
「で、三好一党は?」
「海路で四国へ敗走した! 当分、畿内には出てこられないぞッ」
「……わずか数日で摂津を平定したのは良いけど、三好一党を畿内にいる間に捕まえられなかったのは駄目ですね。信奈様、報酬は」
「六。あたしの言いたいことはだいたい太助が言ってくれたからいいわ。これからは、ただ戦で勝てばいいってものじゃないのよ」
と言って、信奈は勝家に、割れた茶碗をくれてやった。
「次、長秀殿」
「まずは傷んだやまと御所の修復にかかっています。先の足利義輝将軍がおられた二条御所は完全に焼け落ちてしまっており、再建には多少の日数を要するかと」
「デアルカ。万千代、ご苦労」
「地味だが着実な仕事ぶり。実にらしいですね、大通りの整備の方は?」
「そちらは、数日のうちに」
流石はいにしえの古都、韓国様式を取り入れた碁盤の目のように整然と敷かれた道は美しいものです――と長秀は感心していた。
「岐阜から京へ連なる街道の整備も、今後の予定に組み込んでおきます。次、犬千代殿と五右衛門殿」
「……泥棒は全員ひっ捕らえた。盗賊稼業に詳しい五右衛門のおかげ」
「えらいわね犬千代。ういろうをあげるわ」
「で、五右衛門さん。報告するのなら姿を見せてくださいよ」
「――拙者、天井裏にて十分でござる。にん、にん。よいでちゅか。ちのびとは、やみにまぢれてやみにぷちょるもにょ――」
「皆まで言わないでいいですよ〜何言ってるのかわかりませんから、次!」
げっそりやつれた浅井長政が、息も絶え絶えに報告してきた。
「道三殿に騙されたと訴え出てきた女人全員に、利子をつけて金子を返しました……何故私が道三殿身代わりのみならず、自腹で支払いまで」
青い顔で、おぞましい、おぞましい、と繰り返しているあたり、一日中金を返せと迫る鬼婆の群れに囲まれるのは、地獄だったらしい。
「デアルカ。蝮がどうやって一介の油売りから国持ち大名にまで出世できたのか、謎の一端が解けてすっきりしたわ。それにしても、若い頃はどれだけ美形だったのかしら。
今度はそれが気になってきたわ」
「持って生まれた美貌を駆使し、女を利用してのし上がる。道三殿は長政殿の師匠のようなものじゃないですか。師匠の不始末は、弟子が責任を取らなければだめでしょう?」
「いえ。この猿夜叉丸も今や愛する妻を持つ身。これまでの不埒な生き方を深く反省し、女たらしの世渡りなどはきっぱり捨てました。
このお役目だけはなにとぞ……、七梨殿からも、義姉上に言ってください」
(愛する妻、だって。やっぱり長政って勘十郎に惚れてメロメロなのかしら、なんだか胸がわくわくするわねえ)
(なんでわくわくするんだよ? 俺は尻がむずがゆくなって背筋がぞっとするぜ)
「(ま、収まるべきところに収まったということかな)最後に、光秀殿」
――今川義元への将軍宣下を御所から取り付ける。
そうすれば、義元を擁する信奈は「天下人」として御所から認められ、天下布武の野望に大義名分が加わり、逆らう大名も切り取り放題。
ところが、光秀は頭のきんかん飾りを震わせながら戻ってくると、青ざめた顔で信奈の前に平伏しこう言った。
「関白近衛前久殿は、将軍宣下に厳しい条件を突き付けられました」
全て私の不徳の致すところです、と光秀。
「信奈さんを田舎者呼ばわりして、自分が頂点に立つと言い切った男です。それぐらいしてくると思っていましたよ」
「将軍宣下の権利を持つ公家衆が、今川傀儡将軍を担いで自ら実権を握ろうとする姫を邪魔するのは道理です。二十五点」
長秀と太助がそつなくフォロー。
そして肝心の「厳しい条件」はというと。
「今月の内に、銭十二万貫文を御所に収めよ、と――まさしく、無理難題かと」
「ヒソヒソ(な、なあ太助。どのあたりが無理なんだい?)」
「ヒソヒソ(勝家さんの俸禄百年分をあと一週間のうちに収めろってことですよ)」
「ひゃ、百年分!? そっそんな金、織田家の蔵にあるわけないよッ!? しかもあと一週間だなんて……」
「とんでもない話です」
「……厚かましい」
「太助、お前の言うとおりになっちまったぞ」
「そりゃあ、向こうからしてみれば長秀さんの言うとおり、織田信奈を天下人と認めたくない。でも、逆臣を討ち日ノ本に平和を取り戻すという
大義名分を掲げて上洛してきた相手を、感情で認めないなんて世間の聞こえが悪い。だからわかりやすい無理難題を押し付けた。
ま、近衛本人にしてみれば、自分から権力を奪おうとする奴らを潰してやる、というのが本音だろうけど」
「チッ、とことんまで邪魔してくれるわね。……父上が昔、御所に四千貫文を報じて戦国の大名を驚かせたことがあったけど。いくらなんでも法外だわ」
「『貴人、恩を知らず』というか、武家は公家の為に働くのが当たり前だって態度だったからなあ」
一同が頭を悩ませているところに、昔の女たちに迫られ美濃へ逃げ帰っていた道三からの早馬が飛び込んできた。
「川中島で睨み合っていた上杉謙信と武田信玄が、電撃的に和睦いたしました! 領有が相争う間隙を突いた織田軍の上洛強硬を見て、これ以上
互いに相争っている場合ではないと……犬猿の仲である両者の意見が珍しく一致したようです!」
「早すぎるわ、三か月は睨み合っていると思っていたのに。おかしいわね……以前から上洛したがっていた信玄はともかく、信濃を侵略し続けている
信玄の悪行を許さじと目の敵にしている、あの上杉謙信が……」
「情勢は十三点というところです。いかがいたしましょう、姫」
長秀の点数も低い。
赤備えの武田騎馬軍団はまさしく戦国最強戦力であり、織田・松平・浅井の全軍で当たっても、勝つのは難しい。
信玄の上洛ルートには三河があるため、松平元康も狸耳を震わせる。
「信玄が上洛の色気を出す前に本国の守りを固めないといけないわね。三好掃討が一段落した京は十兵衛に任せるわ」
「慧眼なれど流石に光秀殿お一人だけではちと人手が足りません」
「そうね。十兵衛のもとに犬千代と太助をつけておく。サルの軍団も全員京へ残す。私達は全軍で岐阜城へと帰還しましょう。竹千代と長政もそれぞれの居城へ」
「「「御意!!!」」」
即断即決。信奈は決断も早ければ行動も早い。
信玄が次の手を打つよりも先に、京から引き上げることにした。
「あ、あの信玄さんが上洛……? わ、わたくしも逃げますわ!」
「おい、あんたが真っ先に逃げるんじゃないよ将軍候補」
翔子に十二単を踏んづけられてもがく義元。
「あ〜れ〜。わたくし、将軍職よりも命が大事ですわ〜! あの信玄さんにヘッポコ尾張兵なんかが勝てるわけありませんわ〜!
気高く高貴なこの私ですら、武田騎馬軍団の強さはどうしようもないので同盟を結んで信玄さんの顔色をひたすら窺い続けていたというのに〜!」
「それでよく海道一の弓取りを名乗れたもんだな、オイ」
「東国の二代英傑、武田・北条との『三国同盟』が義元さんの力の源でしたから……」
だがまだ武田と開戦すると決まったわけじゃねえ。俺のゲーム知識が正しければ武田信玄は用心深い性格だ、今すぐ全軍で引き返して防備を固めれば動かねえはず! と良晴。
「あ。ちょっと待ちなさい」
良晴だけが信奈に呼び止められた。
「サル。近衛が付きつけた将軍宣下の条件、諦めたわけじゃないわ。あんたは堺へ行くのよ」
「俺が? 京の警護はどうすんだ?」
「私も一緒に行くわ」
管理人感想
ダークレザードさんからいただきました!
長政と信澄、正体バレたーっ! そしてフラグ立ち直した――っ!(歓喜)
この二人は好きなカップリングなのでこのくだりも当然大好き。だけど原作でのその後の出番の少なさに号泣。
いや、他勢力にいる二人だからしょうがないとはわかってるんだけどね。こちらでは出番が増えてくれることを期待します。
一方、良晴達は京都へ、そして堺へ。
原作ではここで光秀とのフラグの前振りとなる亀裂が走るんですよね。幸せになってほしい子なので、良晴にいろんな意味でがんばってもらいたいところですね……もちろん刺されない程度に(マテ