半ば焼け落ちた深夜の清水寺――。

「姫様ああッ! 姫様の危機にこの勝家が間に合わず、申し訳ありませんッ!」
「幸運にも命拾いしましたが、今後このような危険な真似はお慎み下さい。三十点です」
「本当にその通りだ! 止めなかった俺が言うのもなんだけど、家臣と主君の命どっちが大切かぐらいわかるだろうが!」
「わかったわよ。ところで万千代。どうして上洛したの? 美濃の防備は?」
「それは、七梨殿の働きなのです」

長秀曰く。
三日前に太助から手紙が届いた。

『松永久秀の降伏は本心からの物ではないでしょう。信奈様は十二万貫調達の為に、堺へ赴きましたが、独立都市である堺が織田の傘下に
 入ることを良しとしない人間が、松永久秀をけしかける可能性があります。武田信玄上洛の噂、虚報であるとの裏付けが取れ次第、京へ援軍をお願いいたします』

そして信玄は、川中島から兵を引き上げはしたが、上洛の準備をすることはなかった。
その為、こうして援軍を率いて京に向かう途中で松永久秀挙兵の報を聞きつけて、慌てて駆け付けた次第。

「ってことは、料理勝負の開催が決まったころから、太助は松永久秀の挙兵を予測していたってことなのか?」
「いや、それよりも私はその噂の出所が気になります。当の信玄本人には何の得も無い噂ですよ? そんな噂を流したのは誰なのでしょう……」

そこに、太助が松永久秀を伴ってやってくる。
良晴は早速、久秀の匂い立つような美貌と肢体を目の当たりにして完全に中てられてしまった。

「うおおお! エキゾチック美人ッ! オリエンタル美女ッ! 胸が……柔肌をさらけ出した胸が揺れて……おうッ!?」

若すぎる良晴は、この種の大人の女に耐性が無い。
むくれた信奈に顔面を、呆れた太助にどてっぱらを殴られた。
生真面目な光秀と勝家は「この者は裏切り常習犯です。信用なりません。斬りましょう」と勧めるが、信奈は久秀を気に入ったらしい。
おそらくは、謀反を起こしてまで自分の器をはかろうとしたのは、自分の優秀さに相当の自信があるからだ、と捉えたのだろう。
実際に信長も久秀を「あれだけ裏切りを平気で出来る人物も珍しい。あれもある意味大人物だ」と称していたそうだ。

「弾正! よくぞ私に帰順したわ。今度こそは本気のようね。頭がいい武将は好きよ!」
「わたくし、心の底ではこのような結末を望んでおりました。わたくしよりも強い御方に屈服させられることを。ですから信奈様に降伏する証といたしまして
 あらかじめ大和より名物『九十九茄子』を持って参りました」

茶器を、すすっ……と信奈の前へと差し出す松永弾正。
今度は匂いに中てられそうになった良晴が何かを言う前に、腹と顎を殴って黙らせる太助。

「う……お前な……」
「ところ構わず発情しない!」
「うふ。この九十九茄子こそはかの足利義満公秘蔵の唐物茶入れ、天下三茄子の一つにして、銭二万貫を積んでも手に入れられぬ天下の大名物です。まさしく天下人の証」

茶の湯に詳しい光秀。つい身を乗り出して「はぁ」「ほぉ」とため息を漏らした。
久秀はおかしそうに口元をゆるめながら、口上を述べる。

「信奈様。日ノ本の文化の中心たる京を治めるためには、武力だけではままなりません。公家や堺衆と交際するために、これからは貴方様も今風の茶の湯に
 通じねばなりませんよ。僭越ながら尾張の茶の湯程度では……」

厳しくも、温かさと優しさをにおわせる口調。まるで信奈の母親を自任しているようだった。

「これだけの名物をもらっちゃってはね。大和一国を安堵してあげるわ、弾正!」
「うふ。ありがたき幸せ」

納得できない光秀が、信奈に進言しようとした瞬間。
信奈の手から九十九茄子が消えた。

「ええっ!?」


第十八話「白弾正と自由と金ヶ崎」


だが、太助は犯人に見当がついていた。

「善住坊が撃たれたって聞いて、どうしてだって思ってたけどこの為か? 剣」

その声に答えるように、柱の陰から九十九茄子を手に持った少年が姿を現した。

「嬉しいな太助。相変わらず、俺のことをよく解ってくれてる」
「気持ち悪い褒め言葉はいらん、どうなんだ」
「もちろんさ。あんたの家臣を助けた褒美として、このお宝は俺が頂くぜ、織田信奈」

天下人の器たる茶入れ。俺に相応しいお宝だ。と剣。

「頂くぜ、じゃないわよ! 大体あんた何者!?」
「通りすがりの超戦士さ、太助より先輩の、な。覚えておきな!」

そう言い残して、剣は去った。

「あぁ〜! ムカつくわねあの泥棒! ところで弾正。あんたには聞きたいことがあるの」
「何でしょうか。もう一つの名物『平蜘蛛』は命より大切な物ゆえ、譲れませんわ」
「譲れと言ったら?」
「さあ。平蜘蛛を抱いて爆死しましょうかしら」
「弾正。あんたは本当に、主君だった三好長慶を毒殺してはいないのね?」

久秀は「ひどい」と瞳を潤ませながら信奈に強く抗議する。

「わたくし、長慶様を毒殺などしておりませんわ! それは京の口さがない方々が立てた、ただの噂! あの御方は子の無いわたくしにとって実の息子のようなかけがえのない存在でした!
 長慶様には誓って何もしておりませんわ!」
「ふん。火のない所に煙は立たぬと言いますからね。近いことはやっているんじゃないですか?」
「……確かに明智殿の仰るとおり、私は長慶様に従わない弟たちや不忠の息子に鳥兜の毒を盛りましたが、それはあ奴らが皆、お優しい長慶様を蔑ろにしていたからですわ!
 捨て置けば長慶様は暗殺されていました! それなのに……やっと三好家中の不穏分子を始末して、長慶様を守れたと思ったのに……
 その矢先に長慶様がお隠れになってしまわれるなんて……」

三好長慶の父は主君の細川家に裏切られて同じ一族の物に討たれた。家中から孤立し、風前の灯となった幼い長慶の命を救ったのが、三好家の執事だった松永久秀だった。
彼女は長慶を連れて密かに四国へと脱出、軍備を整えて捲土重来を果たし、長慶の父の仇を討って、若き長慶を畿内の覇者へと押し上げたのだった。
忠誠無比を絵に描いたような彼女の過ちは、この時、愛する主君が手にした権力を守れるのは自分しかいない、三好一族も、細川管領家も、足利将軍家すらも、
長慶を害するのであれば自分の手で取り除かねばならない……そう思い定めてしまったことかもしれない。
そして久秀は、主君を守る為に、当たり構わず毒針を振るい、刺し続ける蠍となった。
長慶を病で失ってからも、毒を撒き続けた。自分の毒に耐えられる――共存できる強き者を見つけるために。

「その為に、わたくしは足利義輝公をはじめとするあらゆる英傑を襲撃して試してきたのです。そして、わたくしの眼鏡にかなったお方は貴方お一人です、信奈様。
 陰陽師にあれほどの覚悟をさせ、伴天連に剣を持たせるその大器……貴方だけが、この国で忌み嫌われてきた波斯の幻術使いであるわたくしを受け入れてくださるお方」

信奈が笑顔でうなずく。

「いいわよ。私がなってあげるわ!」
「……え?」
「この私が、あんたが仕えるに足る主君になってあげるって言ってるのよ! 私はこれから日ノ本を、そして世界を相手に天下布武の戦いを始めるの!
 そんな人間、あんたの主君としては不足かしら?」
「……信奈様ぁ……」
「それと、私に代わって足利幕府を潰してくれてありがと! 日ノ本どころかこの京すらろくに治められない、あんな無力な将軍家なんて不必要だわ!
 弾正! 私と一緒に、この国を大掃除して新しく生まれ変わらせましょう!」
「……ああ……ああ、わたくしを本当に理解してくださるお方が、ここに……」

感極まったのだろう。久秀が、袖で目を拭った。

「何か、破壊者同士で意気投合しちゃいましたね」
「うーん。本当にこんな危険なお姉さんを飼いならせるのか。この人、ちょっとばかりヤンデレ入ってそうだぜ……」
「ただし弾正。いいこと、織田家の家臣に一服盛ったら許さないわよ! このサルにもね! 私の家臣は皆私の物なの。あんたが毒殺して良いいわれはないわ!」
「はい、御意です。これからは『白弾正』として生まれ変わりますわ」
(なんつー晴れやかな笑顔……心配だ……すげぇ心配だ……)


「この私の全身から溢れる人徳が、危地を救ったのですわ! おーっほっほっほ。信奈さん、新将軍に相応しい二条城の造営を急いで下さいます?」

夜が明け、朝日が昇った。
浅井長政が清水寺の急変を知り、再上洛した時には、信奈は半壊した清水寺に変わる義元の新たな居城・二条城の突貫工事を陣頭指揮していた。
なお、津田宗久は震え上がって『今後は今井宗久殿を境の代表といたします』と詫びを入れ、厨房係左遷の件はそれぞれ、生真面目に清水寺を守り抜いた功績、
フロイスを動かした功績、久秀の動きを予測し援軍を手配していた功績を称え、勝負を引き分けにすることで決着がついていた。
そこに光秀の乗った白馬が、しずしずと近付いてきた。
光秀の背中には、馬を苦手にしている良晴が抱き着いている

「おーい信奈。フロイスちゃんを連れてきたぜ〜」
「相良先輩は道中、私の背中にもたれて半分寝ていただけではないですか。しかも道順すら知らないで! ほとんどこの十兵衛光秀が案内したようなものです」
「おいおい。堺へ帰ろうとしていたフロイスちゃんに『二条城へ来ないか』と声をかけたのは俺だぜ」
「はいはい。たしかに声をかけた『だけ』でしたね」
「キーッ! ああ言えばこう言うッ!!」
「あんたたち、なんか妙に仲良くなってない?」

と信奈が少し不満げに口をとがらせた。
そんな中光秀と良晴に導かれたフロイスが馬を下りた。
フロイスが『クイーン・オブ・ジパング』と呼ぶ織田信奈と直接対面して言葉を交わしたのは、この二条城普請の現場が最初だった。

「初めましてノブナ様。ポルトガルより参りました、ルイズ・フロイスと申します」

馬を下りながらも、信奈の視線はフロイスの胸に釘づけだった。勝家を遥かに超えるサイズに好奇心とやっかみを抱いているようだ。

「フロイス。今度私と一緒に温泉に入りなさい。その胸、自分の目で本物かどうか確かめないとちょっと信じられないわ。何か妙な劣等感を覚えるし……」
「あ……あのう、私の胸以外の事で何かご質問は無いでしょうか、ノブナ様」
「そうそう。パードレに会うのは十年ぶりよ。色々聞きたかったことがあるの」


信奈は、飽くなき好奇心を隠さずに、目を輝かせて質問を重ねた。
年齢は幾つ?
ポルトガルから日本に来て何年になるの?
日本にキリシタンの教えが広まらなかったら、印度に帰っちゃうの?
どうして命を賭けてまで、こんな航海をして日本に来たの?
フロイスは、その全てに誠心誠意答えた。

「神の教えを広めてこの国の民の心を救うこと以外に、目的はありません。私は二度とポルトガルにもインドにも戻りません。このジパングで死ぬ覚悟です」
「デアルカ」
「是非ノブナ様に、京での布教再開をお許しいただきたいのです」
「いいわよ」
「信奈様。それは神事を司る御所の許可を得ませんと……」
「八百万の神を祀る姫巫女様が今更南蛮の神が増えたくらいで反対するわけないでしょ万千代。既得権益を奪われることを恐れた寺社と公家共が邪魔してるだけよ。
 公家衆なんてほっときゃいいの、事後承諾させればいいでしょ」

フロイスが「僭越ですが……」と申し出た。

「堺の小西ジョウチン殿よりノブナ様へ、銀十本を進呈したいと……」
「遥々ポルトガルから海を越えてこの国に来たパードレから金を受け取ったりしたら、私は後世まで物笑いの種になるじゃない! その銀は、
 京に南蛮寺を建てるための資金に使うといいわ」
「……オブリガーダ(ありがとうございます)」

この南蛮帽子だけ貰っておくわね。
そう笑って、信奈はフロイスの手から孔雀の羽をつけた羅紗地の南蛮帽子を受け取ると、自分の頭に被って見せた。
二条城の石垣の麓。
互いに相対して椅子に座って微笑みあう信奈とフロイスを見た良晴は、俺は今、歴史的瞬間を間近に目撃している……と呟き、鳥肌を立てて震えていた。
が、ここから先――フロイスが少し影を帯びた表情になって信奈へこのような言葉を伝えた事実は、彼女自身が後に書き残した長大な歴史書『日本史』にも記されていない。


「ノブナ様。実は、貴方様の夢をヨシハルさんから聞いてから、これだけは申しあげねばならないと思っていたことがあります」
「……なんなの? いい話では、なさそうね」

フロイス達ドミヌス会の宣教師たちは、ただひたすらに神の教えを世界に広めることのみを目的として活動している。だが、何故フロイスのような無一文の修道女が
船に乗ってジパングまで来られるかというと、ポルトガルとイスパニアは通称の為に航海路を広げ、各国に拠点を作っている。宣教師たちは、国王の許可を得て貿易船に乗せてもらっている。
だが、それには理由がある。ポルトガル・イスパニア両国王が競い合って船団を世界中に派遣しているのは、『植民地拡大』という目的を果たすためなのだ。

「植民地、とは何?」
「海外の領土を武力で奪い取り支配することです。ジパングには同じ意味を持つ言葉が無いので……私が作りました」

アメリカ大陸にあるアステカ帝国・インカ帝国なども、黄金を欲するイスパニア軍によって滅ぼされようとしている。
ジパングはどうか解らないし、侍は皆強く、数年で南蛮鉄砲を自国で大量生産するほどの高度技術を身に着けた職人もいる。
だが日本は、火薬の原料である硝石を輸入に頼っている。輸出を差し止められてしまえば、火力では対抗できなくなる。
そして、これはフロイス自身考えたくないことだが、軍人たちがキリスト教の布教活動を悪用して、宗教間の対立を煽り内戦を誘発。
それにかこつけて武力介入を行い、日本を事実上の植民地化してしまうかもしれない。過去、他の国で何度となく同じ手口を繰り返してきたように。
フロイスの師・フランシスコ=ザビエルも晩年には自分のしたことは、侵略活動の手助けでしかなかったのか、と苦しんでいたという。

「フロイス。ポルトガル人のあんたがどうして日本人の私に、そんな話を」
「私が、愛しているからです。この美しい『黄金の国』を、善良で良きジパングの人々を。それに神は、決して他国を武力で侵略し支配する
 などと言った悪しき行為を許されません。布教と侵略は全く反対の行為です」
「でも人によっては、どちらも同じだ、バテレンの教えを知らない野蛮人は、知っている自分たちに支配されることこそが幸せだ、と考える奴もいるかもよ。
 宣教師の中にもね」

フロイスが、唇を噛み締めて項垂れる。

「……はい。残念ですが、現実にはそうです……」
「解ったわ、フロイス。言いにくいことを教えてくれてありがとう。辛かったでしょう」
「……私がノブナ様にお伝えしたかったことは、伝えられました。これでこの国から追放されても、悔いはありません」
「何を言っているのフロイス。あんたにはバテレンの教えを広めるという使命があるんでしょう?」
「え? でも、ノブナ様?」
「誰がどんな神仏を信じようと、それはその者の自由よ。私のような武家が現世の政を為すだけでは、民の命は守れても心までは救えないもの。
 私が許さないのは、民の信仰心を利用して自分の薄汚い欲望を満たそうとする生臭坊主どもなの。あんたはそうじゃないでしょ、フロイス?」

フロイスは、信じられない言葉を、その耳で聞いた。

「あんたの神の教えがこの国を滅ぼす元凶になどならないという断固とした信念があるのなら、この国を善きモノにしていけると信じるなら、
 遠慮せずに幾らでも広めなさい! 資金が足りないのなら、私が出すから」

椅子から颯爽と立ち上がり、馬に飛び乗っていく信奈の姿が、朝の日輪に呑み込まれていく。
フロイスは、瞬間、この極東の島国に人として降臨した主の姿を見たかのような、そんな錯覚を覚えていた。

(まだうら若き乙女でありながら、あの御方こそは、戦乱の続くジパングの民を救うために生まれてきた女王ではないのでしょうか。いいえ、もしかしたら、ジパングのみならず……)


一方太助は、半壊した清水寺に、松永久秀を呼びだしていた。

「七梨殿、このような所に私を呼びだして、一体何の御用なのです?」
「久秀さん。どうしてもあなた個人に聞いてほしいことがあったのです。信奈さん――いえ、織田家の誰にも秘密で」
「……何を、ですか?」
「単刀直入に伺います。武田と上杉の休戦による東国情勢の激変、信奈さんの暗殺未遂事件、貴方による清水寺強襲。これらは全てある男が
 今川義元の将軍宣下を妨害し、自らの野望を叶えるための陰謀だった。そうでしょう?」

久秀は、その言葉に内心で舌を巻いていた。
だが、それを表に出すことはせずに「面白いお話ですわね。どうやったらそんな考えが出てくるのかしら?」と続きを促した。

「まず一つ。俺は旅をしていたので少々、他国の成り立ちにくわしいのです。かつて上杉謙信が関東を平定する際、その男はそれに助力をしていたそうですね。
 つまり、その男は上杉謙信に頼みごとをできる『義』を持っている。二つ目は、津田宗及が光秀さんにやらせようとした南蛮寺の打ちこわしです。
 南蛮人の反感を買うかもしれない行為ですが、『もし依頼者が他にもいてそいつが味方になった方が今より遥かに儲けられる』のなら、商人としてやらない道理はない。
 最後に、『貴方はあの時、杉谷善住坊が暗殺を実行していると知っていた』つまり、善住坊の雇い主から計画を聞かされていたんでしょう?」
「……本当に貴方には驚かされますわ……まさか、それだけの情報であの男の暗躍に気が付くとは」
「……やはり」
「わたくしからはっきりとあの男の名を聞きたいのですね? ですが、それには条件があります」
「条件? まさか俺の命ですか?」
「あらあら、そんなものを頂くつもりはありませんわ。あの男の暗躍を信奈様に黙っていて欲しいのです。信奈様が真に独り立つ強さを身に着けるその日まで」
「……道三殿が逝かれても立てるように、ですか?」
「それだけではありませんが……ね。今の信奈様は大器なれど、武将としても人としてもあまりにも未熟。然れどもあの男が仕掛ける陰謀を全て乗り越えた時、
 信奈様は人間の王になれる強さを身に着けられるでしょう。そして、人を愛することも……」
「……分かりました。俺だって、良晴さんを鍛えていますしね」
「ふふっ。ではお互い様ですわね」
「久秀さん……。だからって、死に急いだりしないでくださいね」
「もちろんですわ。――それではお教えいたしましょう。上杉謙信を川中島から撤兵させ武田信玄を自由に動けるようにし、杉谷善住坊を堺へ送り込み、
 津田宗久を動かしてわたくしに謀反をそそのかし、そしてわたくしに大和の支配権を与えて足利幕府を滅ぼさせたその男の名は……」


「な、な、な……善住坊も松永久秀も織田信奈を討ち損じたのでおじゃるかッ? 信じられぬでおじゃる! しかも、あ奴を救ったのは畿内のキリシタンバテレンどもとなッ!?
 おのれ織田信奈! 麻呂がこれほど張り巡らせた二重、三重の蜘蛛の糸を全て潜り抜けるとは……悪運が強いでおじゃる!」

やまと御所。
近衛前久は「十二万貫文の奉納金を納めよ」という無理難題を解決してのけただけではなく、自分の企てた策謀を全て跳ね除けた信奈に怒り狂っていた。
だがもはや稀代の策謀家である彼にも、これ以上信奈に抵抗する大義名分は無く、ついに信奈のやまと御所参内の日が訪れた。
御所側の出席者は関白・近衛前久、太政大臣、そしてなんと御簾の向こうに姿を隠しているとはいえ姫巫女。
信奈側は、これ以上は無いという程正装した信奈と明智光秀。
そして公家風の冠を被り、ちんちくりんの着物を着せられた良晴に、上洛前に仕立てておいた立派な着物に身を包んだ太助の四名であった。

「織田弾正大弼信奈、参内仕りました」

四人は御簾の正面に正座し、一礼。
もはや前久は「このような者を姫巫女様の御前に……ああ、世も末でおじゃる!」と怒りのあまり失神寸前であった。
なお、無位無冠の武家は姫巫女の前に参内できないため、信奈は前もって御所に根回しし、光秀に「惟任日向守」という新たな性と官位を、
良晴に「筑前守」、太助に「肥後守」という官位を与えさせていた。
しかし、信奈がかねてより名乗っていた「上総介」は実は僭称であり、信奈自身は参内する土壇場まで無位無官だった。
官位の僭称もまた、前久にとっては許しがたい非礼であり横暴だったが、御所の決まりが優先と、嫌々ながら、大慌てで信奈に「正四位・弾正大弼」
という高い官位を与えたというのに、当の信奈本人は「久秀とかぶってややこしくなるから、なんか嫌」とちっとも喜ばなかったのも、前久には許せなかった。
ともあれ、今川義元への将軍宣下の時は来た。
関白として近衛前久が信奈に渋々お褒めの言葉をかけようとした、その時――。


「おだだんじょう。たいぎであった」


御簾の向こうから、幼い子供の声。
姫巫女自身が、言葉をかけたのであった。

「ひ、姫巫女様! ならぬでおじゃる! これらの者はつい先日まで血に塗れ戦をしておった者共! 姫巫女様が穢れまするでおじゃる!」
「このえ」
「はッ!」
「だまっておれ。ちんは、おだだんじょうとはなしがしたい」

そう姫巫女に言われては、前久はそれ以上口出しが出来ない。
が、今まで自分の言いなりになっていた姫巫女の変化に、前久は動揺していた。

「おだだんじょうのはたらきは、ぶけのほまれ。せいいたいしょうぐんににんずる」
「いえ。将軍職は、二条城で宣下を心待ちにしている今川義元に」
「これ姫巫女様は勘違いしているだけでおじゃる! 黙ってうなずくでおじゃる!」
「『おうにんのらん』いらい――すでにあしかがけには、しょうぐんとしてのちからはない。いまがわけもおなじこと。おだだんじょう。これからはそなたがこのくにをおさめよ」
「姫巫女様ッ? 何ということを仰せでおじゃるか―――――ッ!?!?」

前久は自分の胸を押さえながら、息を荒げた。

「織田信奈は平氏でおじゃるッ! せ、せ、征夷大将軍には源氏の血筋の者しかなれぬという決まりをお忘れでおじゃるかッ!?」
「そうか。ならば、おだだんじょうよ。かんぱくとなってこのくにを――」
「ひいいいい! 関白はこの近衛前久でおじゃる―――ッ! そもそも藤原氏でなければ関白にはなれぬ決まりでおじゃる―――――ッ!!」
「ではだいじょうだいじんとして、このくにを――へいしならば、だいじょうだいじんになれるであろう。たいらのきよもりがそうであった」

悪夢であった。これまで御簾の奥に鎮座しているだけの人形だった幼き姫巫女に、一体何があったというのか? 前久には全く見当がつかなかった。

「怖れながらこの織田信奈は、官位など望みません。弾正の位を授かったのは、ただ姫巫女様の御前に参内する資格を頂くため」
「お主! 姫巫女様のお言葉に逆らうでおじゃるかッ!」
「近衛殿。それは信奈様が太政大臣になってもいいということですか?」
「こ、こ、このような南蛮かぶれのうつけが太政大臣などもってのほかでおじゃる……! しかし姫巫女様のお言葉に逆らうことは許せん!!
 とはいえ、太政大臣も許せんでおじゃるッ!!!」
「いったいどっちなんだよ」

思わず突っ込む良晴。

「姫巫女様! 何故に織田信奈などをそこまで信任されるでおじゃるかッ? 戦を生業とする穢れた武家に政を委ねたばかりに、この国はこれほど乱れたでおじゃる!
 公家衆が政を行っていた平安朝の昔に戻すべきでおじゃる! 足利幕府が倒れた今こそ、大政を御所の手に取り戻す時でおじゃる!」
「黙ってろ、売国奴!!」

瞬間、前久を太助が一喝。

「ば、ば、売国奴ぉ? 麻呂を売国奴とぬかしおったでおじゃるか!」
「ああ言ったさ。姫巫女様をこんな御簾の奥に閉じ込めて、自分たちで独占することで威張り散らして汚く生き延びて! しかもその権威で民たちを守ることさえしなかった!
 そんな貴様ら公家衆は、この国を『絶望』に売り渡した売国奴だッ!!!!」

そもそも武家に実権を奪われたのだって、公家が血を流すことを嫌って武家に戦だなんだと『穢れ』を押し付けて、自分たちだけ綺麗でいようとしたからだろうが!
と太助。
ああ、太助の奴キレちまったよ。でも、太助がキレなかったら信奈が爆発していたかもな。と良晴がため息。
光秀も「関白様に、なんて口のきき方を」と顔色を青くして冷や汗を流している。

「むぐぐぐぐ……、流石はこの国を南蛮夷狄に売り飛ばそうとする売国奴の部下でおじゃる! 姫巫女様、どうかこやつにお叱りの言葉を!」

だが、姫巫女の言葉は、またもや意外なものだった。

「そのひつようはない。『しちりたすけ』は、よきもの。いくつものせかいをわたり、いくつものであいとわかれをくりかえし、かぞくの『えいゆう』であろうとする『えいゆう』」

そして『さがらよしはる』もそう。おんなずきであるが、よきもの。はるかかなた……ずっとずっととおきところより、きたりしもの。
てんが、このくにのたみのなげきをききいれ、つかわされたもの。という姫巫女の言葉を聞いて、近衛前久は顔色を変えた。

「ま、ま、まさか姫巫女様、こやつらに触られたのでおじゃるかッ?」
「どういうことよ、近衛?」
「初代の姫巫女様は、相手の目を見るだけで、その者の心の全てを読み取ったと言われているでおじゃる。その霊力は時代とともに少しずつ弱まっていったでおじゃるが
 消えたわけではない。今生の姫巫女様も相手に触れれば、その者の心を読み取れるのでおじゃる!」
「成程。それが、あんた達が御所という籠に姫巫女様を押し込んだ理由か。御簾でさらに隠すあたり、自分たちが穢れている自覚はあったわけだ」
「ええッ? 俺の心を……」

良晴は気付いた。

(ちょっと待て……まさか、御所を警備している時に抱き上げてあげたあの子が? しかも、俺の心を全部読まれてしまっていた、だって?
 と、いうことは。まさか!?)
「ま、待ってくれ。違うんだ。誤解だ。姫巫女様。俺はこんな味噌好きの乱暴女の事なんぞ本当に全然どうでもよくって……! むぎゅ!」
「光秀さん、この無礼サルを一緒に取り押さえて」
「わかりました。相良先輩。非礼です」
「とくに、さがらよしはるがおだだんじょうにいだくおもいのあつさはすさまじい。ちんは、ふたりのよきものがしんじるおだのぶなに、うつしよのまつりごとをゆだねたい」
「うああああ姫巫女様それ以上妙なことを口走らないでくれえ! いや違った、口走らないでくださいませお願いいたしまする! ああっやんごとなき方への敬語の使い方がわからねえ!」
「ただし、さがらよしはるは、とてもとてもおんなずき。あたまのなかは、おんなのこのことでいっぱい。おだだんじょう、ようじんせよ」
「お言葉、しかと承りました」

信奈が、苦笑しながら平伏する。
光秀と太助に組み敷かれた良晴はもう、言葉も出ない。かろうじて……かろうじて、姫巫女が幼い子供だった故に、良晴の一番認めたくない……信奈に聞かれたくない
本当の気持ちについて、はっきりと言ってくれなかったのは救いだった。
そして姫巫女は、今川義元を征夷大将軍に任じキリスト教の京での布教を認め、十二万貫のうち、二万を御所の修理費として受け取り、残り十万はこちらに返してくれた。
最後に、信奈を今川幕府の管領か副将軍に任じようとしたが、信奈は「私は『自由』を望みます」と断った。

「この国の人々から、生まれながらに決められ生涯縛り付けられる身分というものを無くしたいのです。己の立場は己自身の努力と才覚によって掴み取るべきもの!
 無論人間には、自らの役割というものがあります。姫巫女様には、誰にも代われない神事を司る才があります。しかし、役割や才能と身分の貴賤とは別です。
 人の貴賤は、生まれではなく個人の生き様によって決まると、私は他ならぬ自分自身の生き様によってそのことを天下に知らしめたいのです!」

その言葉は、悪意に凝り固まった前久には、身分と血筋の否定、姫巫女への反逆宣言にしか聞こえなかった。が、信奈と姫巫女は前久など気にせず、御簾越しに互いの目を見つめ合っていた。

「よくわかった、おだだんじょう。だがなぜ、このくにから『みぶん』をなくしたいとおもうのか?」

信奈の後ろで光秀と太助に押さえられている良晴には、見えなかったが。
この時、満面の笑みを浮かべた信奈の瞳は、太陽の如くキラキラと輝いていた。
「――私自身の、夢の為に!」


姫巫女は、囁くような小声で、呟いていた。

「ちんもいのろう。そなたたちふたりの、ゆめがかなうことを」


「兄様! 京での留守番中、女遊びは厳禁ですぞ! このねねが見張りますぞ!」
「何でお前が京にいるんだよ……」
「姫様から兄様のお目付け役を仰せつかっていますぞ」

今川幕府が発足してから約一か月が過ぎた。
その間、諸国の大名から続々と将軍・義元を擁する信奈への祝賀の使者が訪れ続けていた。
が、織田家の宿敵・越前の朝倉義景と、越前の隣国・若狭だけは使者を送ってこなかった。
出兵の大義名分を得た信奈は早速軍を編成。
美濃尾張の守りを義父・斎藤道三に一任。柴田勝家・丹羽長秀・七梨太助・明智光秀・松平元康・前田犬千代・松永久秀を引き連れた三万の大軍で若狭に出陣した。
良晴は、清水寺での戦いから熱を出して臥せっている半兵衛の看病と、京都所司代の仕事を命じられて、妙覚寺で骨を休めていた。実際、良晴は桶狭間以来、
一日も休まず働き通しで、小さな怪我も増えてきていたので、ここらで息抜きさせようと信奈は思っていた……のかもしれない。

「しかし半兵衛ちゃん、体の方は大丈夫なのか? 清水寺で急に倒れちまって、なかなか回復しねえ。心配だぜ」
「はい。これから名医の曲直瀬道三先生に診ていただきますので数日中には起きられます」
「道三? 清水寺にかけつけた時は、ベルショールとか名乗ってなかったかあのジジイ」

さて、ここで曲直瀬ベルショール道三について語っておこう。
彼は先の将軍・足利義輝のお抱え医を務めたこともある日本一の名医で、フロイスの体を診察した折に南蛮の最新医術を学ぶために洗礼を受けて、ベルショールという洗礼名をもらった。
東洋と西洋の医学を極めた『神医』に相応しい腕の持ち主だが、かなりのスケベジジイで本人曰く、手のひらを生娘の素肌に当てて悶気を吸い取る、という養生法を心得ているため
六十を超えていながら、背筋は伸び、血色もいい。が、良晴は触診と称して女の子の素肌に触り放題する為に南蛮医に転向したとしか思えなかった。
実際、この爺さんは、色の道を研究している松永久秀と共同で閨房術の書を記している。
松永久秀に「女の最大の武器を永遠に保つ方法は無いかしら」と持ちかけられた時、あれこれ恥ずかしい性の秘術を口伝したという。
もっとも、その後久秀に実地で直接教え込んであげようとして、逆に芥子の毒を盛られて多聞山城から捨てられて、カラスの餌になりかけたが。

そして診察も終わり、話題は良晴のことになったのだが、ベルショールは良晴に一つ忠告を送った。

「あまり未来の話を他言せぬ方がよいぞよいぞ、そちの切り札じゃ。それにな、歴史ががらりと変わってしまえばそちの千里眼も役に立たなくなるじゃろうが」
「それは私も少しだけ心配しています。良晴さんは、すでにあれこれと歴史を変えてしまっています。桶狭間で討ち取られるはずだった今川義元さんを助けましたし
、  長良川では斎藤道三様も助けました。お二人とも、良晴さんが知っている歴史ではあれらの合戦で命を落としていたといいます」
「成程の。じゃが、キリシタンの教えには『全ては神の御心のままに』という考え方もある。人間の世界での出来事にはあらかじめ神の定めた運命というものがあって、この小僧一人が
 何をしようが、歴史の大枠は変わらない、変えられないという可能性もあるわいて」

そう言えば……と良晴が手を打った。

「俺が戦国ゲームで覚えた歴史では、三好一党と松永弾正は足利義輝を殺していたはずなんだ。で、織田家が上洛した際に将軍位に就けたのは、
 今川義元じゃなくて足利義輝の弟・義昭だった。ところが……」
「――足利義輝公は生き延びられ、妹の義昭様と共に民へ御逃れになられたとか。本来、将軍になられるはずの義昭様が歴史の表舞台から退場されたことになります。
 これは、死ぬはずだった今川義元さんが生き延びてしまったために、歴史の流れの方が後から帳尻を合わせたからだとも考えられないでしょうか」
「歴史が帳尻を合わせる……って、誰がどうやって合わせるんだい半兵衛ちゃん」
「私には解りかねますが、あるいはキリシタンが『デウス』とか『神』と呼ぶところの大いなる意志が――ということなのかもしれません」
「信奈と同じで、俺はそういうものは信じねえんでな。第一、そんなものがあるとすれば、俺がこの時代に来た意味が無くなっちまう。仮に『天意』があるとしても、
 そいつは俺に仕事をさせたがっているはずだぜ、信奈を補佐するっていう仕事をな」

難しい話になって、ねねと五右衛門がついてこれなくなってきたので、この話題はこれで終わりとなった。

「歴史を変えると言えば、今回の若狭攻めは、良晴さんの知らない未来だったようですね」
「ああ。信奈は、てっきり越前の朝倉を攻めると思っていたんだけどなあ」
「ほう。若狭ではなく、越前でござるか? しかし朝倉を攻めれば、朝倉家と同盟ちている浅井長政がこまりまちゅぞ」
「そうなんだ五右衛門。俺のゲーム知識ではそうなるはずだった。越前の奥深くまで侵攻した所をいきなり背後の浅井長政に裏切られ、信奈軍は
 京への退路を断たれて絶体絶命。これが『織田信長公の野望』の超有名イベント――『金ヶ崎の退き口』ってやつだ。ま、若狭を攻めているんなら心配ないな」

寝間着を着ようとしていた半兵衛が、掌で胸を隠すことも忘れて「そんな……大変です」と声を上げた。

「若狭攻めは偽装です! 家臣団にも隠し通した真の狙いは、若狭入りと同時に東へ反転して、越前の朝倉義景を急襲することです!」
「……何だって……!?」


管理人感想

 ダークレザードさんからいただきました!

 ちゃっかり出てきて九十九茄子をいただいていく剣。
 原典の彼と違って重い使命がない分気ままにやってるみたいですね。あと、海東くん譲りのツンデレ成分はまだですか?(マテ

 ついに動いてしまった金ヶ崎フラグ。
 原作に続きこちらでも回避できませんでしたか。まぁ、原作でも大いに盛り上がったイベントだけにやらなきゃもったいない的なものもありますしね。物書き的視点としてはここで回避しなかったのは正解かと。その他の部分でどう独自性を打ち出してくるか、楽しみにさせていただきます。