織田信奈の欲望。前回の三つの出来事!
一つ! 降伏した松永久秀は、信奈に惚れこみ「白弾正」として生まれ変わると宣言!
二つ! 良晴と太助を通して姫巫女の信頼を得た信奈は、今川幕府を樹立させる!
そして三つ!! 若狭へ出陣した信奈の真の狙いは、朝倉家だった!!


西近江路より若狭へ進軍した織田軍は、急遽進路を変えていた。
若狭入りと同時に信奈は越前攻めを通達。これに驚いたのは太助であった。

「どういうことですか! まさか、最初からこうするつもりだったんですか!?」
「そうよ。あの朝倉が協力なんてするはずないもの」
「……朝倉攻めの件、長政さんには……?」
「言ってないわ。あいつ真面目だから、前もって相談したら朝倉の旧恩と織田との同盟の間で板挟みになるだろうから……太助?」
「まずい……それはとてもまずいです……」
「どういうこと?」
「俺も、浅井家が長政さんの下、一枚岩になっているのなら、心配はしません。でも今の浅井家は実質、長政さんとその父・久政殿の二人の当主がいます。
 そして重要なのは、長政殿が父上に逆らうことができないということです」


「長政さんはとても親孝行な方です、そんな長政さんがすでに一度、お父上の久政様を島流しにして強引に家督を奪っています。
 おそらく、もう二度とお父上には逆らえません」
「そんな馬鹿な。長政程の武将が……そんな理由で……そんな……」
「人にはそれぞれの価値観があります。長政さんの天下人としての器が信奈様に一歩及ばないのもその美徳故」


「朝倉家との関係に拘る久政殿は、我が子を幽閉してでも、浅井家を無視して同盟相手の朝倉を攻めた無道な織田家を許さないはず。
 今からでも間に合います。長政さんに連絡を入れてください!」
「……あんたの言いたいことは分かったわ。でもそれは出来ない」
「どうしてですか!」
「聞いて太助。越前を押さえる理由はね、上杉謙信に備えるためなの」
「あの越後の軍神に……ですか?」
「ええ。武田家と休戦した今、あの軍神は自由に動けるわ。もし越後から越前まで一気に進撃されて、近江の平野で正面から迎え撃つようなことになったら、
 私達に勝ち目は無い。だから一刻も早く、北国から京への通り道である越前を押さえなくちゃいけないの」

心配してくれてありがと。でも久政だってそこまで愚かじゃないわよ、と言って信奈は進軍を再開する。
馬に乗って立ち尽くしたままの太助に、松永久秀が近づいてきた。

「止められなくて残念でしたわね」
「……久秀さん。貴方が浅井家の人間だとしたら、どこで退路を塞ぎにかかりますか?」
「くす。私でしたら……金ヶ崎城を超え、朝倉義景の本城・一乗谷城まで一直線の木ノ芽峠に差し掛かるあたりですわね。そこで仕掛ければ、前方は二万以上の朝倉、
 北近江からは一万五千の浅井、そして浅井が動けば西近江の朽木信濃守も呼応するでしょうから、織田軍は三方塞がりの窮鼠になりますわ」
(木ノ芽峠……良晴さん。こうなっては、貴方がそこを通過するまでに間に合うのを期待するしかなさそうです……)


第十九話「小豆袋と殿と相良良晴の希望達」


小谷城。浅井長政の寝室にて。
長政は甲冑を脱ぎ、淡い桃色の湯帷子を着て『お市』として、信澄に膝枕をしてあげていた。
温泉での一件以来――信澄はこれまでの遊び癖をきっぱりと断って長政一筋になり、長政も信澄に献身的に尽くす娘となっていた。
つまり、良晴が羨むこと間違いなしの似合いの夫婦になっていたのだ。

「生まれて初めて、私は私になることが出来たかのようだ。ありがとう、勘十郎」
「いやあこちらこそ。夫婦というものがこれほど風流なものだとは、思いもよらなかったよ」
「いずれ父に事の真相を打ち明けて、私は女性に戻ろうと思います」
「大丈夫かな。久政殿はちと、頭がお堅い」
「二人の子が生まれれば、父もきっと折れてくれます」
「おやおや。ぼかぁ子供を産めない身体だよ?」
「大丈夫です。こうして仲睦まじく暮らしていれば、いつか生まれますとも」
「ああそうか。君の方が生むのだったね。ははは」
「ふふふ」

良晴相手に信奈を奪い合っていた頃とはまるで別人のように、女らしく柔和な表情になった長政。
野心の炎が消えた長政は、信奈を義姉と慕う忠実な妹分であった。
だが、そんな自分の変化を長政は好ましく思っていた。
『日の本一の兵と呼ばれたい』という欲望は、大勢の仲間とともに抱く『夢』になり、捨てたはずだった『姫として幸福になりたい』という個人としての夢も拾い上げることが出来た。

(私は……幸せ者だ……)

だが、この直後――。
長政は父に呼びだされた。


「長政。既に織田信奈は我らとの約定を破って越前へと攻め入り、敦賀の手筒山城を落とし、金ヶ崎城へと攻めかかっているという。だが未だにこの浅井家には一本の知らせも来ない。
 今すぐ兵を起こして織田と手切れし、朝倉を救え」
「ま、まさか父上。それだけはご容赦を!」

自分が性別を偽って暮らすきっかけを作ったとはいえ、長政にとっては父である。
長政は苦悩した。
家臣たちも、朝倉派と織田派とで意見が分裂してる今、下手をすれば浅井家は分裂して、父を相手に戦わなければならなくなるかもしれない――!

「父上。既に織田家と浅井家とは縁戚関係。織田に叛いて、お市をいかがいたしますか」

久政が、長政の耳元に顔を寄せて密かに耳打ち。

「何を言う長政……まさか織田の姫に骨抜きにされたわけでもあるまいに」

お市の正体をまだ知らない久政は「女同士で夫婦など、遊びのようなもの」と思い込んでいる。
だが、長政と信澄の二人は、人前ではありのままに振舞えぬとはいえ、今や堅い男女の絆で結ばれていた。
信奈を裏切るということは、信澄が敬愛する義姉を裏切るということである。
しかも、浅井がここで兵を挙げれば、越前に深入りしている織田軍を滅ぼすことは赤子の手を捻るように容易い。
信奈は、万に一つも、助かるまい。

「お聞きください父上。お市姫は、実は」
「黙れ長政よ。敵国の姫のことなど、金輪際聞かぬぞ!」

真実をこの場で打ち明けてしまえば、久政は「信奈め我らを謀っていたのか!」とかえって激怒しそうだった。長政は唇をかんだ。

「ならば父上、お教え下さい。織田信奈を倒して、その後、この国をいかがいたします」
「いかがも何もない。足利家が絶えた以上、これより今川将軍家を盛り立て、この国の秩序を元通りに戻すまでじゃ」
「秩序など応仁の乱によって既に壊れておりまする! 今は、信奈殿が乱れきったこの国に新しき秩序を造り上げようとしている、一番大切な時!」
「あの者はこの国を破壊しようとしている魔王ぞ! 関白近衛前久様を売国奴呼ばわりする者を配下に持ち、恐れ多くも姫巫女様の御前で『この国の人々から身分秩序をなくす』と
 宣言したという! あれはきっと崇徳様の生まれ変わり! 恐るべき謀反人ぞ!」
「あの方特有の言葉の綾でございます!」

なおも反抗する長政に、久政は言い放った。

「そなたに譲った家督、しばし返してもらう」
「父上!? 何と仰せられる!?」
「者ども、長政の狂気が落ち着くまで竹生島に幽閉せよ。織田信奈を討ち取った暁には家督をそなたに返し、今度こそ出家すると約束しよう。
 恨むでないぞ長政。これでお相子だ」

以前、家臣団が愚鈍な久政に代えて長政を当主として担ぎ上げた時、久政が幽閉された先が琵琶湖に浮かぶ竹生島だった。
この時の親不孝を未だに悔いていたからこそ、軟禁を一時的なもので済ませて、あれこれ政に口を出してくることにも、長政は何も言わなかった。
そして今度逆らえば、父を斬らねばならない。とうとう長政は抵抗できなかった。
家臣たちに連れられ、護送されていく長政に、久政は一言、言い残した。

「儂は、織田信奈ではなく、そなたに天下人になってもらいたいのじゃ。このような好機は二度とない。許せ、長政よ」

その言葉を聞いた瞬間、長政の中に信じられないほどの怒りが湧き上がった。
私は父の欲望を叶えるために、天下人を目指していたのではない。
父は私を守ってくれなかった。だから私は、自分で自分を守る為に天下一の兵になろうとした。だが本当は、自分を守ってくれる誰かが欲しかった。
貴方は、やっと出会えたその人を私から奪おうというのか、と長政は怒りと悔しさで落涙した。
家臣団に囲まれ廊下を渡る途中、お市が――信澄が、顔色を変えて飛び込んできた。

「いったい、これは……!?」

家臣たちが「御両人、いけませぬ」と二人の間に割って入る。

「勘十郎! ここで信奈殿が討たれれば、天下はさらに乱れまする。もはや南蛮諸国の武力に抵抗できぬほどに……後を、頼みます」

勘十郎とは誰だ、どこにいる? と家臣たちが左右を見回している隙に、お市――勘十郎信澄は長政の意思を汲み、即座に駆けだしていた。
越前金ヶ崎城へと向かうために。
だが――。
艶やかな姫姿で城下の今浜の町へ馬に乗って飛び出した信澄に、追手が次々と迫ってくる。
町の人々は、お市様はいったいどうなされた? と驚くばかり。
「誰か助けてくれえ」と信澄が叫んでも、女装した美少年特有の、怪しげな美貌に目を奪われて、手を合わせたり泣いて伏し拝んだりで聞いていない。

「ああ、美し過ぎるのも罪だなあ……って、自分に酔ってる場合じゃない! ここで僕が捕われれば姉上は……!」

しかし、信澄は武家の長男でありながら馬も弓もヘッポコ。
今浜を出て越前へ連なる街道を駆ける途中で、ついに落馬し追い詰められた。

「お市様! それだけはなりませんぞ!」
「長政様の下へお送りさせていただきます!」
「来るなあッ! ああ、尾張ならば親衛隊が駆け付けてくれたのに……!」

遂にはなけなしの勇気を奮い起こして斬り死にを覚悟するも、お市のまま飛び出してきたので丸腰であった!
もはやこれまで、と信澄が覚悟した刹那。

「蜂須賀五右衛門、ただいま参上仕ったでござる! にんにん!」

ぼむッ!!!
一撃のたどんとともに、黒装束のちびっこ忍者と、そしてその背後で馬の首にしがみついて「やべえ、酔った。これ酔った」と呻いている若侍が加勢に現れた。

「おお。乱破君、サル君! どうしてここへッ?」
「説明は後だ! そっちこそ、どうしてこんなところに? もしかして、もしかするのかッ?」
「こちらも委細を説明している暇はない、これを姉上のもとへ……!」

五右衛門と捕り手たちが刃を交える中、信澄は袂から前後の口をきつく縛った小豆袋を良晴の手へと放り投げた。
それで良晴は全てが分かった。
『織田信長公の野望』で『金ヶ崎の退き口』に登場する、有名な小豆袋だったからだ。つまり、事態は最悪の方向に進んでいるということ。

「わかった! 五右衛門、後を頼むぜ! 悪いが、追手を食い止めてくれ!」
「一人では危ないでござるよ、相良氏!」
「仕方ねえだろ!」

良晴が馬を再び進発させると同時に、俺が居る、と笑いながら公家風のいでたちに、細面の白い顔をした貴公子が天から舞い降りてきた。

「前鬼か! 助かる!」
「主より、お前のお守役を頼まれたのでな」
「お前のようなチートキャラがいれば安心だ」
「いや。京で俺は無敵だが、越前まで離れればそうはいかん。あの鉛弾という奴を喰らえば、主の力無しでは出てこられぬぞ」
「要するに、京以外では半兵衛ちゃんに再召喚してもらわねえと駄目なんだな」
「お前のサル語はよく解らん言葉が多いが、まあ、大体そうだ」
「狐にサルと言われたくはねえな」
「越前には狸もおるぞ」
「虎の皮を被った子犬もな。誰も、死なせやしねえ!」

信澄の、義姉上を頼むと。五右衛門に長政の救助を頼む叫び声を背に浴びながら、良晴と前鬼を乗せた馬は駆けた。
運命の、越前へ――。


越前金ヶ崎城を落とした織田軍三万は、怒涛の勢いで木ノ芽峠へと向かっているところだった。
この木ノ芽峠を越えれば、越前の朝倉義景は本拠・一乗谷城に孤立する。
越前朝倉家は伝統と格式を重んじる旧家で、足軽達は地味な昔ながらの具足を身に着けていた。そこに、めいめいが思い思いの傾いた軍装で着飾っている
華美な尾張兵が大挙して押し寄せるのを見た朝倉勢はまず「あれが戦をする者の格好か」と驚き呆れ、やはり都を支配する天下人の軍勢は違うと恐れて次々と降伏していった。
地力では、自分たちの方が圧倒的に勝っているにも拘らずである。
漆黒の名馬「利刀黒」に乗って進む姫大将の信奈はといえば、眩く輝く金襴の南蛮具足、頭にはフロイスから譲られた華美絢爛な南蛮帽子。
さらに、小姓の犬千代達に、巨大な南蛮渡来の振り子時計を担がせて運ばせている。
これはフロイスが献上してくれた物で、信奈は最初「動かし方が解らない」と返却しようとしたのだが、良晴が「俺ならなんとかできる」と言い出したのでもらうことにした。
以来、宝物として大切にしているものであるが、犬千代達もまさか戦場にまで運んでくるとは思ってなかったし、田舎臭い朝倉勢は堺の新兵器か、鉄砲を超える南蛮の武器か、と顔色を失っている。
越前に織田軍が通るところ、行く手を遮る者は無かった。
ただ一人、七梨太助だけはどんどん顔色を悪くしていったが、周りの人間は誰も気づかなかった。
だがその破竹の行軍の途中で、織田勢は木ノ芽峠を前に進撃を停止しなければならなかった。
陣中、主だった諸将が並ぶ中に突如、良晴と、半兵衛の影武者・前鬼が駆けこんできたからである。

「浅井家が、謀反した。織田軍は今、この小豆袋のように京への退路を断たれている」

息を切らして這いつくばり、前後の口をきつく縛った「小豆袋」を差し出してきた良晴の言葉を、最初、信奈は信じなかった。
いや、良晴が口走った言葉を、理解できなかった。

「サル、何を言ってるの? 長政はどういうわけか勘十郎と仲良くしてるじゃない。最近じゃ人柄まで丸くなっちゃって。あいつだって馬鹿じゃないんだから
 天下布武の為には謙信より先に北陸を固めておく他に道が無いことは分かってるでしょう。見てみぬふりをしてくれるはず――」
「越前を攻めればこうなることは俺には最初から分かっていた。ただ俺は……どうしようもない馬鹿だった! お前が言葉通りに若狭を攻めると思い込んでいた!
 お前に越前を攻める意志があるかどうか、前もって確かめておくべきだったのに……!」

涙を浮かべて、俺がうかつだった……と呻く良晴を見て、諸将がざわめく。

「……でも……どうしても、信じられないわ」
「その小豆袋は、追われていた信澄から受け取ってきた。隠居の浅井久政がしゃしゃり出てきて、長政を幽閉してしまったらしい。俺達が浅井家に無断で朝倉を攻めたと憤っているんだろう」

信奈はその言葉を聞いて愕然とした。
全てが太助の言った通りに動いているではないか。

「い……幾ら、久政が愚物でも、そんな愚かな真似……まさか」
「信奈。ありえない事なんかじゃない。久政は、お前の親父とはまるで出来が違うんだ」

織田信奈は、ここに生涯最大の窮地を迎えた。
いや、その全軍までもが死地に取り込まれていたのである。
姫大名の身である信奈ならば、降伏して出家すれば命だけは拾える可能性がある。
だが、将兵たちに「みんなの命を頂戴」などと爽やかに唱える人間の辞書に「降伏」などありはしない。
抱いた夢が潰える時こそが、織田信奈という人間が死ぬ時だと、他ならぬ彼女自身がそう定めたのだ。
まして、自分の油断の為に、多くの仲間たちを死地にさらしてしまっていた。
万千代――竹千代――六。太助。十兵衛。犬千代。弾正。そして、サル。
このままでは、皆が屍をさらすことになる。

「そんな。嘘よ。全部、嘘だわ……」
「信奈! 今すぐ撤退しろ! ここで前後から敵を受けて戦えば、全軍玉砕するしかないぞ!!」

良晴が叫ぶ。
そうだったわね、と信奈が夢から覚めたように目をしばたたき、そして床几から立ち上がった。

「私自身が囮になる。殿を務めて――」

その続きは、長秀が言わせなかった。

「なりません姫。この退却戦の殿は、全軍玉砕する他はありません!」
「でも。私には、みんなが必要なのよ。一人も死なせたくない……!」
「駄目です。清水寺の愚は二度となりません。姫の身柄が敵の手に落ちれば全てが終わります」
「じゃあ。降伏……降伏を……このままじゃ、みんな討死しちゃう……!」
「それはなりません、姫! 天下布武を諦めなさるおつもりですか?」
「だって。だって、みんなが……みんなが……」
「聞いてくれ信奈さん。ここまで卑劣な裏切りをやってのけた以上、敵方は絶対にあなたを助命しないだろう。ルールなんて守らずに、問答無用で首を取る。
 それでなくとも、不慮の事故、家臣の暴走、毒殺。敵を闇に葬る手段はいくらでもあるんだ」
「姫。この織田家は、いえこれからの日ノ本は、姫なしには立ち行きません。家臣の一人に、その手勢の足軽共に、殿の役目を……死を賜りますよう。
 天下布武の大号令を発した以上、犠牲は出ます。お覚悟を!」

努めて毅然と振る舞っていた信奈の顔が歪んだ。

「……そんな命令……出来るわけが……!」

選ばせては、ならない。
姫様に、そんな負い目を生涯負わせてはならない!
一斉に、家臣団が「自分が殿を」と名乗りをあげようとした。
しかし、相良良晴が「ここは当然俺だろ!」と立ち上がって大声で名乗りを上げる――よりも早く「その役目は俺がやる!」と太助が名乗りを上げた。
良晴が、必ず殿をやるつもりだと思っていたからだ。

「俺はどこの世界でも、ただの通りすがりだ。だからまあ、いたずらに命を賭ける理由は無い。あんまりやり過ぎてもそれはそれでまずいですからね。
 でも今回ばかりは、良晴さんには任せられない。良晴さんは木下藤吉郎じゃないんだから、ここで命は賭けさせられない」

パンッ!
太助は頬に激しい痛みを感じた。

「あんた、死ぬわよ! 死んじゃうに決まっているでしょう!? あんたがいくらサルより強くたって、生き延びられるわけないじゃない!
 シャオに胸を張りたいからってそこまですることないでしょ!?」

信奈が涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら泣きじゃくった。

「俺が殿を引き受けるのはそんなことじゃない」
「じゃあ、何よ!?」
「友達を助けるのに、一々理由なんていらないでしょう?」

そう言って太助は、信奈の肩を掴み正面から見つめる。

「俺は死なない。この命は俺の仲間たちの思いでできているから。俺には、守ると決めた人がいるから。約束する。たとえ『七梨太助』が死んでも『俺』は必ず生きて帰る」
「……馬鹿よ。そんなことの為に……」

小声で呟いた信奈は、それ以上太助と目を合わせることなく、久秀に肩を抱かれ、付き添われて、馬で陣中から駆けて行った。
諸将も無言のまま、次々と出立の準備にかかる。
誰一人として慌てふためくことなく、順番に太助の手を握りしめながら、最後の言葉を交わしていく。

「……太助……お前……」

勝家は、こんな時に気の利いた言葉が出てこない。
太助の指を折りそうな勢いで堅く手を握って、ただ顔を紅潮させ、涙をこぼすばかりだった。

「……あたしたちの手勢から、殿を志願した兵を預けていく。餞別だ……」
「ありがとうございます」
「……生きて……帰ってこいよ……」
「その時は、最高に美味い味噌料理を、家の家族全員に奢ってください」
「あ、ああ! それぐらい、いくらでもおごってやるッ!! だから……! だから……死なないで……」

勝家が鼻をすすりながら去った後、長秀とあいさつを交わした。
何があろうとも常に温厚で笑顔を絶やさない彼女だが、この時ばかりは嗚咽を押し殺すこともできず、ひたすらに太助の手を押し頂いて頭を下げ続けていた。

「思えば……織田家はずっと、貴方と相良殿に助けられていました。それなのに……」
「気にしないでください。でも悪いと思うのなら、少しだけ信奈さんと良晴さんの関係に目をつぶってくれると嬉しいです」
「……私は、家老として、零点でした。……ごめんなさい……」
「いや、本当に気にしないでくださいよ! 何か、討死しなくちゃいけない雰囲気になっちゃいますから!」

次は犬千代。

「考えてみたら、良晴さんと一緒に、一番長く世話になりましたね。ありがとう」
「……」
「……もういいでしょう? はやく離れて信奈さんを追いかけないと」
「……離れない」
「駄目です。離れて」
「……いやだ」
「わかれよ! 死地にいるのは、俺も、信奈さんも良晴さんも同じなんだ! 俺を守っているうちに二人がやられちまったら意味が無いでしょう?」
「……」

離れた犬千代の頬に、光るものが一筋。
太助は一瞬戸惑い、かける言葉を失った。

「……さよなら。またね、ばいばい」
「ええ。生きて、また」

……

(これで全員、撤退した、か。いや……)

そう思いながら、信奈の残した床几に腰を下ろす。
ふと顔をあげると。
予想通りに居残っていた人物が一人と、予想外に居残っていた人物が二人。
相良良晴と、松平元康、明智十兵衛光秀。

「いい加減に逃げないと、どんどん討ち取られやすくなっていきますよ」
「……なあ、太助」
「殿を代われ、とかは聞きませんので。早く逃げなさいって」
「聞けよ。俺なら、絶対に死ぬと決まってはいない。何故なら」
「『木下藤吉郎は金ヶ崎の退き口を生き延びた』ですか? そりゃ心強いですねェッッ!!」

怒気を発して良晴の胸倉を掴みあげる太助。

「墨俣の事を忘れたのか? あんたは『木下藤吉郎』じゃない。『相良良晴』なんだ! 自分の頭で考えて動け! いい加減に中途半端は止めちまえッ!
 ――聞いてください。多分、杉谷善住坊は諦めていない」
「えッ?」
「必要なんだ。『玉避けのヨシ』の直感が。分かったらとっとと信奈さんに追いつく!」
「……前鬼! 太助を頼む!」

良晴もまた、撤退していった。
そして。

「元康さんと光秀さんも早く」
「ふん。指揮をしたことのない七梨先輩が殿だなんて、不安で仕方がないじゃありませんか。だから、残って援護してあげます!」
「私もです〜。半蔵から聞きました〜。わたしが三河で独立できたのも、七梨さんの策のおかげだと〜。受けた御恩は必ず返す。それが、松平家の家訓ですから〜」
「……お二人の気持ち、嬉しく思います。だから――早く逃げてください」
「まったく七梨先輩は……ッ! ここは黙って恩に着ておくところでしょうッ?」
「聞いてくださいよ。貴方たち二人はたぶん、信奈さんが最も信頼している人間です」

革新性においては信奈の足元にも及ばないが、内を固めることに関しては歴史においても稀な忍耐力の持ち主。それが松平元康であると太助は知っている。
彼女の開いた江戸幕府が、三百年にわたって存続したのがその証だ。
そして光秀も。
彼女の官位『惟任日向守』の『惟任』は九州の名族だけが名乗れる苗字。やまと御所発祥の国、日向国高千穂を守らせるための『日向守』
名字や官位に全くこだわらない信奈が、そんな性と官位を与えたのだ。
つまりは、そういうことである。

「そんなお二人がここで死んだら……信奈さんは『絶望』します。だから」
「……分かりました。その代わりに私の虎の子の鉄砲五十丁を貸してやります。いいですか! 貸すだけですからね! 必ず、後で倍返ししろ、です!」

目を真っ赤に腫らした光秀が一礼しながら、陣を後にした。
そして、元康も。

「半蔵も自ら志願しました〜。どうか使ってやってください〜」

そう言ってほほ笑みながら、撤退していく。

「……やれやれ。人間どもは涙もろい。実に面倒で面白い生き物だ」

どこかに姿を消していた前鬼が、いつの間にか太助の隣で笑っていた。
取り敢えずは良晴の「太助を頼む」という願いに応えるつもりらしい。

「とりあえずは、よろしくだな」
「ああ。俺は死なぬからな、気楽なものよ」
「前から聞きたかったんだが……あんたは不死身なのか?」
「さあて。京を流れる龍脈が断たれれば、この俺とて無に帰るだろうよ」
「成程。不老であっても不死不滅じゃないってことか」
「いやいや。俺は式神。既に人ではないさ。何せ、生きておらぬのだからな」
「そうか? 俺には、あんたが生きているようにしか見えないけどな」

前鬼は大空を飛ぶ鳥を眺めながら「式神が『生きている』か……。七梨。お前は良い男だな」と呟いて、笑い声を漏らした。

「山野辺から『いい性格』と言われ慣れているけど、『いい男』は初めてだ」
「そうか、良かったな」

二人で笑い合っているところに――。

「久しぶりだな七梨太助。さて、朝倉は総軍を率いて既に木ノ芽峠へと殺到してきた。この絶体絶命の危機、どう乗り切る」

服部半蔵が、忍び部隊十数名を率いて音もなく馳せ参じる。
さらに、目を怒らせ、あるいは涙を流し、決死の形相で集ってきた殿志願兵、総勢五百人。

「俺達五百人の足軽兵、殿を志願しやした者達ですみゃあ!」
「皆、七梨様の為に死ぬ覚悟を固めてますみゃあ!」
「七梨様がいなければ、わしらは今もただの野武士のままだったみゃあ」
「今こそ、その後恩を返す時だみゃあ!」

この中の何人が、生きて再び今日の土を踏むことができるだろうか……そう思うと、太助は無性に悲しくなったが、顔に出すまいとぐっとこらえる。

「まったく……俺が言えたことじゃないが、馬鹿が多すぎるぞ!!」
「実を言うと……ここにいる皆、相良様にある希望を抱いておりますみゃあ」
「へえ。相良様なら、もしかしたら……身分を超えて姫様と結ばれてみせるかもしれん……と!」

太助は思った。
人の上に立つ者に必要な資質。
それは、人に『この人の力になりたい』と思わせる何かだと。
大切な人の為に困難に立ち向かう姿でも、責任を果たそうとする姿でも、それを通じてそう思わせられること。
織田信奈だけじゃない、相良良晴も間違いなくそれを持っている。

「だったら皆! あの人が『皆の希望』だというのならッ! 俺達が『あの人の希望』になってやろうじゃないかッッ!!」
「「「おおおおおー!!」」」
「さあ、行くぜッ!!」
「おおッ!!」


織田信奈と相良良晴の物語、第二の運命分岐点にして、日本史上最大の撤退戦。
金ヶ崎の退き口が今、始まる――。


管理人感想

 ダークレザードさんからいただきました!

 原作で言うところの3巻まで消化。ついに次回から本格的に“金ヶ崎の退き口”の始まり。
 良晴ではなく太助を残しましたか。本作ではディケイドである太助なら死ぬ心配はないでしょうが、今まで歴史の流れに配慮して大暴れは避ける傾向で動いてきましたからね。今回はさすがにそれどころじゃないと理解しているようですが、さてどれだけ暴れてくれることやら。
 ともあれ、ここが信奈達の正念場ですが……それよりも何よりも、浅井のバカップル夫婦はさっさと再会して爆発しろ(見苦しい嫉妬はやめい)。