――見たことのない光景だった。
前田犬千代が……うずくまっている。
丹羽長秀が……声も嗄れよと叫んでいる。
柴田勝家が……織田信奈に呼びかけている。
そして、織田信奈が……血で汚れた手で、倒れた相良良晴に、必死で呼びかけている。
どうして……?
兄様は、小谷城へ向かったのではなかったのか?
相良良晴は、腹から血を流しながら、織田信奈を庇うように倒れていた。
「ねね……帰れなくて……ごめんな……」
それが最後の言葉だった。
相良良晴の、命は、尽きた。
「兄様ッ!?」
ねねは、怯えながら目を開いた。
織田家の皆も、良晴の姿も、幻のように掻き消えていた。
「……はあ、はあ、はあ……ゆ、夢でしたか……良かったですぞ」
ここは京の妙覚寺。
ねねは、近江へ向かった良晴から半兵衛の看病を頼まれてここに残っていた。
半兵衛自身は、良晴に同行しようとしたが、曲直瀬ベルショールから強く、絶対安静を言いつけられたため、やむを得ず前鬼をつけて良晴を送り出したのだ。
(妙ですぞ……今の夢は、夢と呼ぶには奇妙過ぎるほど本物のようでしたぞ)
まだ深夜。曲直瀬ベルショールから処方された飲み薬が効いてぐっすりと眠っている半兵衛を無理に起こして相談するのは躊躇われた。
(あの殺しても死ななさそうな兄様に限ってまさか……兄様は槍も弓も馬術もヘッポコですが、ずぶとく生き延びることにかけてだけは、天下一品ですぞ)
桶狭間の時も、墨俣一夜城の時も、清水寺の時も……良晴はいつだって絶体絶命の危機を乗り切って、必ずねねが待っている家へと陽気な笑顔で、土産を持って戻ってきてくれたではないか。
太助だってついているんだから、今度も大丈夫だ。そうに違いない……。
何度も自分にそう言い聞かせようとしているのに、体の震えも、胸騒ぎも、止まることが無かった。
第二十話「撤退戦と狙撃と魔少年」
「これが越前の追撃軍ッ!? とんでもない数の敵兵だなッ!」
「うおおおおお、逃げるでや大将〜!」
「敵は幾人ありとても〜!」
「必ずや大将を京へと生還させるだみゃあ〜!」
越前・金ヶ崎城から脱出した七梨太助とわずか五百人の命知らず野郎どもは、弓矢を背後から浴びながら必死の形相で山道を駆けていた。
上洛して、今川義元を征夷大将軍の位につける御所工作に成功した織田信奈は、今川幕府(というより織田家)に忠誠を誓おうとしない朝倉義景を大軍で急襲した。
総兵力約三万の奇襲が見事に成功し、朝倉勢は総崩れとなり、信奈軍は越前の本城・一乗谷城まであと一歩というところまで迫った。
だがこの時、北近江で変事が起こった。
天下を望める器を持ちながら『織田信奈の義弟』という現状に満足してしまっている息子を苦々しく思っていた浅井久政が、長政を捕らえて家督を奪い
『朝倉とともに、御所をも恐れぬ大悪党織田信奈を倒し、我が子に天下人の座を』と信奈軍の退路を断ったのだ。
前方からは、朝倉軍、約二万。後方に、浅井軍、約一万五千。
まさに「袋の鼠」となった信奈は、京への困難な撤退を決めた。朝倉勢の追撃を踏みとどまって食い止める殿の役目を買って出たのが、七梨太助。
世界を旅し続ける『世界の破壊者』あるいは『通りすがりの超戦士』
くぐってきた修羅場の数が違うだけあって、この絶体絶命の危機にあっても、冷静だった。
その太助に協力するは、呪の霧で目くらましをしてくれている式神・前鬼。そして松平家の忍び・服部半蔵。
「七梨太助。貴様はこの『金ヶ崎の退き口』をいかにして生き延びるというのだ? 我等を蹴散らせば逃げる織田軍本隊を捕捉できる、そう覚悟している敵の攻撃は凄まじいばかり」
そう。逃げてばかりでは本隊を無事、京へ逃がすという仕事を果たせない。
と言っても、五百対二万ではまともにぶつかれば蹴散らされるだけ。光秀が貸してくれた五十丁の種子島も「たった」五十丁しかない。
その上逃げるのに精一杯で弾を込める時間が無い。加えて、もう一つ――。
「あんの〜儂は九州からきたもんでごわすが〜薩摩の島津家には『捨て奸』ちゅう技があるでごわす」
その薩摩なまりの激しい足軽曰く。
逃走の最中、山道沿いに鉄砲隊を点々と伏せさせ、追手を狙撃する。
だが鉄砲は弾込めに時間がかかり、連発は出来ない。
そこで、鉄砲を撃ち終えた者、持たない者は順に槍を構えて敵に突っ込み切り死にする。
即ち、大将一人を守る為に、兵士全員が命を使う。必要なものはただ一つ、死をも恐れぬ勇気だけ。
それが島津家伝統の必殺兵法『捨て奸』
五百人の足軽達が「乗ったぜ!」と気勢を上げるが、太助は走りながら首を横に振った。
「駄目だッ! その戦法は強力な島津家の足軽だからこそできるものッ! 日本最弱の尾張兵が真似をしたって意味が無いッ!!」
それに、俺一人が生き延びるために、あんたたち全員を捨て石になんてできやしないッ! と太助が啖呵を切ると同時に、傷だらけになった五百人が、一斉に顔色を変えた。
「何を言われるみゃあ! ワシらの命なんぞ、塵芥のようなものだみゃあ!」
「我ら、名も無き足軽五百名。いかようにも、捨て殺しにお使い下されみゃあ!」
「馬鹿を言うなッ! 俺を生き延びさせるためにあんた達が死んだら良晴さんはどう思うッ!? 思い出せッ! 俺達は、俺達の『希望』を守る為に戦っているんだろうッ!?
あのスケベなサルは、自分の為に命を投げ捨てる人がいたら、泣くぞ……? だから……命を捨てる覚悟をするくらいなら、生き抜く覚悟をしろッッ!! これは命令だッッ!!」
自分たちの命を心から案じている大将の言葉に、決死隊の男たちは言い知れぬ感情の波にのまれた。
「では七梨太助よ。背後に迫っているあの雲霞の如き大軍をいかがするというのだ?」
と半蔵。既に朝倉勢は山中に伸びる狭い街道へと殺到し、太助達に追いつこうとしていた。
ここからはもう戦うしかない。無いのだが――。
(この決死隊には鉄砲の名手がいないッ! 一騎当千の豪傑たちだからな……。しかも、光秀さんは鉄砲五十丁は貸してくれたが、
肝心の撃ち手は自分と一緒に引き上げさせる『うっかり』をやらかしてやがるッッ!!)
太助が金ヶ崎城から逃げ続けていたのは、まともな鉄砲部隊を組織できないこの状況で、鉄砲を有効活用するにはどうしたらいいか、考える時間を作る為でもあった。
「(鉄砲の弱点、それは再装填に時間を取られて連射が出来ないこととその工程が複雑すぎること。ならばーー!)――三段撃ちしかない!」
「「「三段撃ち!?」」」
「そうだ。今から五百人を三つの担当に分ける! 一つ、火薬と弾を込める係。二つ、火縄に火をつける係。三つ、種子島を撃つ係。
こうして全員が一丸となって助け合い、この狭い山道で三倍以上の速度で種子島を連射すれば、五十丁でも敵を混乱させられる!」
目の前に、敵の大軍が突進してくる。既に乱戦になりつつあった。
太助は種子島を構えながら思い返していた。
いつか、織田信奈はこう言っていた。
『私の目は十年、百年先を見ているのよ。誰も理解できなくても、私には自信がある』
(ああ、知っているさ。俺は、俺達だけは、貴方が正しかったということを、知っている。なのに、ついに理解されずに、一人ぼっちで死んでしまったことだって知っているんだ)
『だから、心が痛むときは念仏の代わりに「天下万民の為」という言葉を唱えなさい。私一人が罪を被ればいい』
(いいや、この国の戦乱は、誰も彼もが自分の欲望だけを追い求めた結果、誰かが『破壊』しなければならない所まで来てしまった。貴方だけの罪なんかじゃない。
そんなことを言える人が『都合のいい仏』なんかになっていいはずがないッ!)
太助は、目を見開いて、引き金を引いた。
弾は、当たらなかった。
即席の素人鉄砲隊も同じだった。
だが、それでも霧に覆われた山道での不意の銃撃は、朝倉の先鋒隊を慌てさせるのに十分だった。
「種子島は単発じゃ! もう撃たれる心配はない、斬り込めぇ!」
そう叫んで軍配を振り下ろした敵軍の大将の兜に、どうん! と太助が矢継ぎ早に放った二発目が命中した。
大将は訳の解らないまま、失神して落馬した。
「次!」
息つく暇もなく、太助達は三発目を放った。
やはり織田家は南蛮渡来の新兵器を持っていたんだ、と朝倉勢の先鋒は崩れた。
「服部党、参るぞ」
この機を逃さず、半蔵の一喝と同時に忍びの者達は混乱する先鋒隊の中へと突進し、無言のまま一斉に手裏剣を投じ、容赦なく苦無で切り裂き、撒菱を撒き散らし、煙幕を張った。
霧と煙幕で視覚を、種子島の轟音で聴覚を奪われた朝倉先鋒隊は、さらなる大混乱に陥った。
そして。
服部半蔵が仕掛けた爆薬が、軍勢の中で大爆発を起こした。
「今だ! 撤退!」
ひとまず成功と見た太助は、五百人の殿部隊と共に朝倉勢に背を向け、山の中を一目散。
「よくやったぞ七梨太助。仕掛けた焙烙玉が炸裂するまで、朝倉軍の先鋒をあの場に釘付けに出来た」
流石は忍びか。
何時の間にやら太助の隣を並走していた半蔵が抑揚のない声で珍しく褒めた。
「随分派手にやったじゃないか。おかげでかなり時間を稼げたんじゃないか?」
「だが、焙烙玉は残り一つ。ここからは貴様の勘が命綱だ」
五百人は流石に決死隊に自ら志願しただけはあり、忍びの者達の超人的な脚力にも全員ついて行っていた。
――戦場に、奇跡が、起こっていた。
前鬼が呼びだす霧と、太助が未来から拝借した三段撃ち、そして半蔵率いる忍び部隊かく乱作戦――この三者が見事に融合し、殿部隊は実に五度までも山中で朝倉勢の追撃を振り切って見せたのだった。
しかしこの奇跡は「諦めるな。生きて生きて生き抜け」と叫び続ける七梨太助に対する殿部隊の勇者たちの異常なまでの士気と忠誠心の高さが、
引き起こしたことに、前鬼と半蔵だけは気付いていた。
「一刻も早く追手との距離を開けたいが、この先は山越えの難所続きだ。ここで小休止を取るぞ! 俺も休む!」
駆けるだけ駆けた太助は、仲間たちを休ませる頃合いを見計らい、峠越えの隘路を目前に部隊をいったん小休止させた。
本人も宣言通りに、手近な木に寄りかかると目を閉じた。
(ここまで、臆病風に吹かれた人間はいない……いるのは死んでしまった人と、足手まといになるくらいならと死ににいった人たちだ)
かつて、七梨太助は『守られること』を負い目に感じていた。
だが今は、守られた命が何かを為して、散った命に意味を作るのが守られた者の義務と考えている。
だからこそ、今は悲しまない。泣かない。歯を食いしばって大将の務めを果たし抜く。
「よしッ! ここからは山登りだ! 行くぞッ!!」
深夜に、岐路が、訪れた。
誰もが文字通り全身傷だらけになり、特に大将として狙われ続けた太助は額も頬も血だらけで、もはやどこを怪我しているのか自分でもわからなかった。
そんな有様で、やっと若狭へ入ろうとしたその時。
「まずいな七梨。どうやら実にまずいことになりそうだ」
それまで常に恬淡としていたはずの前鬼が、眉を顰めて太助に小声で囁いてきた。
「なんだ、前鬼」
「若狭の土御門が、朝倉側についたようだ」
「土御門? どこかで聞いたような……」
「――日ノ本の陰陽師の頭領だ。かつては安倍家を名乗っていた者共でな、今は土御門家と称して戦乱の京を避け、若狭に隠棲している連中よ」
「ああ! 清水寺の戦いの時、半兵衛さんの話に出てきたな! 没落して京を捨てたと言っていたけど、なんで今更朝倉に?」
「さて、何を思ってお前を討ち取る気になったのか……。それは本人に聞かぬとな」
「来るのかッ?」
「ああ。結界が狭まってくる……待ち伏せはやめたらしい」
前鬼の白い頬に汗が一筋。
来た。
土御門の陰陽師が、己の肉体を使うことなく、重力に引かれることなく。
見えない力に支えられているかのように、山頂へとせりあがってきた。
「お前が、土御門か」
「そう。僕が土御門家当主、土御門久脩。そろそろ京へ戻ろうかな、不意にそんな気になったんだ。となれば、新たに京の支配者となるであろう浅井さん朝倉さんへの手土産
が必要でしょ。そこで今宵これより『織田家の猿回し』の首をもらおうと決めたんだ」
十歳ほどの、幼い少年だった。
青白い顔、人形のような冷たい瞳。そして、自分こそが強者であるという絶対の自信の表れたる、冷たい笑顔。
こいつはOZと同じ……力を持ち過ぎた子供だ、と太助は気付いた。
やりたいようにやりたい。それができる力がある。だから、やる。
悪意も憎しみも無い。ただ、自分を取り巻く世界の全てが、自分の玩具でしかないというだけ。
土御門久脩はその欲望だけで動いている。
「くす、くす、くす。よく若狭まで逃げてきてくれたね。逃げ足の速い織田信奈とサルは既に近江へ入ったようだけど、『織田家の猿回し』の干し首
を持参すれば、浅井さん朝倉さんもさぞ喜ぶだろうなあ――」
半蔵が無言で手裏剣を投げるが、夜空に高々と浮かぶ土御門久脩の体には当たらない。
そして、夜空に、土御門久脩の背後に――数十体の異形を誇る式神どもの影。
怖れを知らない決死隊の勇者共も、人智の及ばぬ者――その証を見せつけ続ける久脩に動揺し始めていた。
「久脩とやら。土御門家は、京の守護という任務を捨てて若狭へと逃げ出した負け犬の群れよ」
「……へえ。そこの狐顔の貴族さんは、式神だったのかい。完全な人間の姿に化けられる高等な式神は、この不世出の天才陰陽師、始祖様・安倍清明公の再来と
称えられる僕も初めて見たよ。だが、式神同士の戦は量よりも質。君がいくら強くとも一匹だけでは、僕が呼びだしたこの数には勝てない」
「久脩よ。何を血迷って今更京へ戻るなどと言い出した。これは子供の遊びではないぞ」
前鬼の咆哮に、久脩は冷笑で返した。
「竹中何とかという田舎陰陽師が、こともあろうに織田信奈に仕えて京に来た。この陰陽師の頭領たる土御門家の僕を差し置いて『今孔明』などと呼ばれて
持て囃されているらしい。……許せないよ。だから面倒っちいけど京へ「黙れクソガキ」何?」
「要するに『僕が一番じゃなくちゃやだやだ』っていうガキの駄々か。こっちはこれ以上余計に疲れたくないんだ。さっさと倒されにかかってこい」
「……決めたよ。お前は絶対に殺してやる」
闇の中……。
血に飢えた式神の群れ数十体が、太助に一斉に襲い掛かる。
「よよよ妖怪変化どもだぎゃあ!」
「たたた大将逃げてくれだみゃあ!」
殿部隊の悲鳴のような声が響く中、太助は言った。
「土御門久脩……ほえづらかきやがれ」
『HERO RIDE DECADE!』
「姫様。朽木谷に入りましたよッ! この難所を通り抜ければ、後は一直線。京は目の前ですよッ!」
金ヶ崎城に太助を置き捨てて――織田信奈は今、険しい山道・若狭街道を名馬「利刀黒」に乗って進んでいた。
京から出陣した時には琵琶湖沿いの平坦な西近江街道を堂々と行軍したが、そちらは真っ先に敵に押さえられている。退却路は、険しい山道以外にはない。
ここまで、不眠不休の逃走劇だった。
息もつかずにかけ続け、もう涙として流せる水は尽きた。
後悔、悲しみ。もう信奈の体はそれらに押し潰されていてもおかしくは無かった。
だが……。
今の信奈は生きなくてはならなかった。
生き延びて京に辿り着かなければ、太助の犠牲は全て無駄になる。
だから、信奈は、全てを台無しにした愚物・浅井久政への怒りで気力を奮い起こし、かろうじて己を支えていた。
だが、その怒りも……限度に達しようとしていた。
「おい信奈、大丈夫か? この朽木谷は、朽木信濃守が支配してる。こいつは浅井に従っているから、もう敵に回っているかもしれねえんだ。
おまけに朽木城が立ち塞がっているから、無断で通るのも駄目だ。……聞いてるかッ?」
「……姫様。ここでいったん停止する」
背中の良晴と、横の犬千代が、信奈を慌てて押しとどめた。
二人も、勝家も、すでに全身傷だらけである。
真っ先に離脱したとはいえ、信奈主従の逃走経路は決して安全だったわけではない。それどころか、目を血走らせて後から後から湧いてくる落ち武者狩りの連中につけ狙われ、追い回されてきた。
しかも、一刻も早く京へ戻らねば、「信奈死す」の虚報が広まり、京はどうなるかわからない。敵対勢力に奪われるよりも早く生還できれば、追撃してくる浅井朝倉へ反撃に移ることができる。
限りなく零に近い可能性ではあるが、殿部隊を救助できるかもしれない……。
いま彼女を守っている家臣は本当に最低限の少人数である。
京への生還と行軍速度を最重視した結果であったが、それでも信奈がここまで無事だったのは、ひとえに勝家と犬千代の奮戦があったからだ。
この二人がいなければ、信奈はもう五・六回は首を取られていたに違いない。
「ひ、姫様。あの……」
「……朽木信濃守と交渉して、味方につける」
「……デアルカ」
虚ろな瞳の信奈が、覇気のない声で呟く。
「……万千代達は?」
「長秀さんの後続部隊は、太助の殿部隊が無事に逃げてこられるように、山道をできるかぎり整備しながら退却してる。たぶん十兵衛ちゃんと元康も手伝ってるぜ」
「……そう。無駄なことを……」
「姫様ッ! 無駄なんかじゃありませんッ! みんな、太助を死なせまいと、一所懸命に戦っているんです! いい加減に元気を出してください、姫様ッ!」
「……そんなの偽善だわ。太助を捨て殺しにしておいて……みんな無駄だと分かっていて……」
「おい信奈ッ!? お前ちょっとおかしいぞッ!? しっかりしろッ!」
「知ってる? サル……父上が病に倒れた時、坊主どもをたくさん集めて祈らせたことがあったのよ……」
良晴が「そうなのか?」という顔で勝家を見つめると、勝家は「そうだそうだ」と首をぶんぶんと振った。
「……坊主どもは祈祷をするとか何とか言って意味も無い経文を唱えて騒いでいたけれど、結局父上は助からなかったわ。私はそうすることで『自分は父上を心配していた』
って周りに言い訳したかっただけなのよ。坊主どもはそんな人間の弱い心に付け込んで金を稼いで食ってるの。だから私、あいつらをみんなお堂に閉じ込めて一人残らず焼こうとしたわ。
無駄だと分かっていて、幻の希望を見せるなんて……偽善だと思わない……?」
「た、確かにそういうこともありましたよね、姫様。でも、あの時は平手の爺が間一髪、燃える御堂から坊さんたちを助けだして事無きを得ましたっ!」
「……父上の葬儀だって全部、無駄ごとだったじゃない。死んだら人間は灰になって、痛いとか苦しいとか、そんな感情、全部消えてなくなっちゃって……。
私達が葬儀をやるのだって、結局は自分がどれだけ悲しいかを表すためよ。死んだ人間にとっては、全くの無駄事だわ……」
「姫様。今は、そんな話をしている場合では……!」
「……太助の退路、ですって? 太助はもう帰ってこられないってわかってるくせに……ハン。自分たちで殿をやらせておいて……役に立たない退路を作って善人のふりをしようだなんて。
葬式と同じ、ただの自己満足よ。でも……でも、太助に『死ね』って命令したのは……ほかの誰でもない……この私……私なのよね……う……ううううっ……」
もう、涙なんて一滴残らず出し尽くしたと思っていた。
なのに、心の奥底が抜けてしまったかのように、また……流れてくる。
「ああ、姫様が……姫様がどんどん壊れていくぅ! 姫様、何とおいたわしや……」
勝家がどうしていいか解らず、おろおろと涙目でうろたえている横で。
ぱんッ!
「……信奈、いい加減にしろよ」
良晴が、信奈の横っ面を力いっぱい張り飛ばしていた。
「泣いていたって無駄なんだよッ! お前が生き延びなけりゃ、太助が殿を志願した意味が無くなっちまうッ!」
サササササル〜お前なんてことしてやがるんだよ〜、と勝家が悲鳴をあげる。
しかし、この一撃が、壊れかけていた信奈の心を、ぎりぎりで繋ぎとめた。
「……サル……? 私、何をしていたのかしら……? ここは、どこ……?」
「ここは朽木谷だ。これから朽木信濃守と交渉しなきゃいけねえ」
「そう……そうだったわね」
「……信奈。太助は生きている。今はそう信じようぜ。長秀さん達だって、その『希望』を持っているから、あいつの為に道を作るっていう危険を冒しながら
厳しい撤退戦を続けているんだ。それに……あいつは一人で置き捨てられたんじゃねえだろ?」
はっ、と信奈は我に返ったかのように、目を見開いていた。
そうだ。
太助の忠義(と、良晴の何か)に魂を震わせた五百人の足軽兵たちが、彼の為に、そして信奈自身の為に進んで殿を志願したのだ。彼らの多くは、金で雇われた傭兵。そんなことをする義理も義務もないのに……。
自分は、太助一人を心配して……彼と自分の為に命を投げ出してくれた彼らと、その命の重さを忘れていた……。
「――ありがとう、サル。私、どうかしていたわ。そうね、あの太助がそう簡単に死ぬわけないものね!」
「そうさ! むしろ百人斬り千人斬りの大活躍してるはずだぜ!」
「姫様が目を覚まされたああッ! でかしたサルッ! それにしても太助め、こんなに姫様を悲しませるなんて……おごりの約束、あいつだけおかわり禁止にしてやるッ!」
「……犬千代は、太助が戻ってきたら槍で突く」
「俺は……え〜っと……とにかくただじゃ済まさねえッ! 俺たち三人で太助をぎたぎたにしてやろうぜッ!」
勝家も犬千代も良晴も、信奈を励ますため、涙を堪えて空元気を出しているのだ。
(三人とも、金ヶ崎を脱出してからここまで一度も太助を思って泣かなかった……サルなんて今すぐにでも助けに引き返したいはずなのに……私の為なんだわ。
私に気を遣って……私をこれ以上悲しませまいとして……万千代達だって……)
信奈は、わあっと泣き出したくなる激しい感情をぐっと抑え、京へ生きて帰るまでの間、もう涙は流すまいと心に誓うと、行く手を遮る朽木城を見上げてみた。
「朽木谷……まるで京の裏側にひっそりとたたずむ隠れ里ね。無断で押し通るわけにはいかないの、犬千代?」
「……この小勢では、難しい。朽木谷は歴代足利将軍の避難場所に使われてきた特別な地。誰も無断では通れない。押し通ろうとすれば問答無用で襲いかかってくる」
「デアルカ。ぐずぐずしている暇はないわね」
「で、誰が朽木信濃守と交渉するんだ? ってか、面識ある奴いるのか?」
と、良晴。
「あたしは面識ないよッ」
「……犬千代も無い」
「長秀さんか十兵衛ちゃんがいてくれたら、いいんだが……朽木信濃守がいつ攻撃してくるかわからないからな……。早く京に戻らなくちゃいけねえってのに……」
勝家は脳筋で口下手だし、犬千代は無口で人見知りするし、信奈は弁が立つけど毒舌で人の怒りを無駄に買うし、何より飛んで火にいる夏の虫だ。
「……となると、俺しかいなさそうだな……。仕方ないか」
良晴が意を決して、足を向けようとした。
「だ、駄目よッ! あんたが交渉なんてできるわけないじゃないッ!」
「しょうがないだろッ! 犬千代や勝家よりは何とかなるだろうし――」
「――いえ。この私にお任せを」
茂みの奥から――。
唐風の派手な衣装で着飾った、褐色の肌を持った麗人が、馬の背にだらしなく仰向けに寝そべりながらゆっくりと現れた。
「久秀ッ?」
「……松永弾正」
「蠍」の異名を持つ謀反常習犯。
働いた悪事は枚挙に暇が無い、戦国乱世に咲いた毒の華。
長煙管をふかしながら、妖艶な笑みを浮かべて、驚いている信奈たちの顔を眺めている。
「今までどこへ消えてたんだよ、お前ッ!? さてはこっそり逃げようとしたな!」
「……急に出てくるなんて、怪しい。姫様を裏切るつもりかも」
「くすくす。確かに、今ここで信奈様を裏切ればわたくしは大和一国の主から京の支配者に返り咲けるかもしれませんわ。いかがいたします、信奈様?
もしかしたらわたくし、朽木信濃守を説得して、そして――浅井朝倉方につけたりして」
よくもいけしゃあしゃあと〜! と勝家が刀に手を駆けるが、信奈は勝家を押しとどめた。
「弾正! あんたに任せたわ。私は絶対に生きて京へ戻らなくちゃいけないの! それも少しでも早く! お願いね!」
「姫様ッ!? 信じるんですかッ、こんな奴をッ!?」
勝家がなおも静止するが、信奈と久秀は目と目を合わせて頷き合った。
こうまでこいつが久秀さんを気に入っているのは、雰囲気がどことなく蝮のおっさんに似ているからかもしれねえ。久秀さんと話す時の信奈はなんか楽しそうだ。
それは、同じ規格外の人間としてのシンパシーか――ひょっとしたら、母親に甘えている感覚なのかもしれねえ。と良晴は思った。
「うふ。信奈様? 今やあなた様こそが京を統べる弾正。織田弾正大弼信奈様ですわ」
「いいのよ。弾正は弾正でしょう? 私は『信奈』で十分よ」
「まあ。怖れ多くもやまと御所から授かった官位をお飾りとしか思っていないなんて、悪い御方。そういう人、嫌いではありませんよ。うふっ。
しばしお待ちあれ。幸いにも相手は小僧ですわ。すぐに、朽木信濃守を籠絡してまいりましょう」
目を細めて、稀代の悪女というにふさわしい黒い笑みを浮かべながら久秀は、無数の蝶になって消えてしまった。
遥か西方の異国人の血を引く久秀の容姿が人間離れした美しさを誇るだけに、なお一層恐ろしい。
「あああ……なあサル、あたしは気が気でないよ。姫様は、どうしてあんな化け物じみた手合いと気が合うんだろう?」
「う〜ん……。蝮のおっさんと同じ、油断が出来ないくらい頭がいい奴の方が、そういうスリルを楽しめていいのかもしれねえなぁ。……多分」
すっげぇ不安だけど、今は久秀さんに信奈と俺達の命運を託すしかねえんだよな、やり過ぎたり裏切ったりしないのを祈っとこう。と良晴はうなずいた。
「信奈様。万事うまくいきましたわ。信濃守様は信奈様に護衛をつけて、京まで道案内してくださるそうです」
良晴と勝家は、拍子抜けしたように顔を見合わせた。
まさか、信濃守から護衛の兵まで貸してもらえるとは、予想も出来なかった。
松永久秀は、どうやって信濃守を取り込んだのか?
っていうか、何故だか久秀の全身がほてっていて、えも言われぬ色香を強烈に漂わせているのは何故だ?
「ひょ、ひょ、ひょっとして、いいいやらしいことをして信濃守を味方につけたとか?」
「くすっ。いやらしいことなんて、してませんわ。私、そんなお安い女ではありませんの。もっとも――悪いことは、してきましたけど。くすクスクス……クククくくッ」
ぞぞおっ……と勝家が震えあがる。
良晴も、あまりのやばさに色気でゆだっていた頭が一気に冷えた。
「ひひひ姫様あッ! 弾正が、何かやばいですよッ! 妙なものでも口にしたんじゃないでしょうかッ!?」
「今はそんなことを詮索している場合じゃないわ、六。とにかく京へ急ぎましょう! これだけの護衛がいれば、落ち武者狩りからだってきっと逃げ切れるわ!」
こくり、と犬千代が頷いた。
京へ連なる山道――若狭街道の終点近く。
信奈は、涙を堪えて駆け抜けていた。
彼女は、生まれて初めて理解した気がした。
守るべき何かの為に死んでいくことよりも、生き残ることの方が――命を託された者の方が、時には遥かに悲しく、辛く、身悶えするほどに苦しいことがあるということ。
そして、手を合わせて頭を垂れ、存在するかどうかも分からない神仏に祈る者の気持ちを。
(ここで私が『絶望』してしまったら、太助は無駄死にになってしまうわ。ううん。太助はきっと、生きている。そうよ。万千代達が退路を準備しながら行軍してくれているんだし……
知恵者の十兵衛だっているんだし……そう信じて今を生ききるしかない!)
人が葬儀の場で流す涙も、僧侶の祈祷にすがるのも、決して己を満たすためにするのではない。
心の底から、その人を思うからこそ、そうせずにはいられないからなのだ。
京まであと少し。
今自分が生きて、誰も予想しない電撃的な速度で『織田信奈』が帰還すれば。
死の報を聞いて再び京を窺うであろう、四国の三好一党。甲賀に隠れ、再起を諦めていない六角承禎。
そして、主無き京まで無人の道を一直線だと信じている浅井朝倉軍。
彼らの勢いを大きく削ぎ、織田軍は再起できる。
この、織田信奈という姫武将が生きていれば、それができる。
その為に、信奈は、捨ててきた。
友を。
生涯で初めてできた、友を……。
それでも、もう、泣かない。
生きて、笑顔でいなければならない。
少しでも身を軽くするために、鎧まで脱いで、小袖姿でここまで馬を駆ってきた。
「六! このあたりはどこなの?」
「姫様。我らは今、叡山の西の麓、雲母坂のあたりを走っています! ここを越えれば、もう京の都です!」
勝家が、日の光に目を細めながらそう語った。
長かった夜が、明けようとしていた。
「デアルカ。犬千代、弾正。もう、馬を潰す心配は無用になったわね。全速力で駆けるわよ!」
「……御意」
「御意」
峠の向こう……目の前に、京の都が広がっていた。
(私は生きているわ。貴方に、命をもらったのよ)
信奈の馬が、一行の先頭に立った。
その時。
自分にしがみついていた良晴によって、信奈は馬から突き飛ばされた。
次の瞬間、道の脇に鬱蒼と茂った林の奥から、種子島の大轟音が、突如響き渡った。
一発。
そして。
二発。
地面を転がる信奈が身を起こした時、最初に目に飛び込んできたのは。
馬上から吹き飛ぶ良晴の姿。
良晴は、自分を庇って撃たれたのだ。そう理解した瞬間、信奈の中で何かが切れた。
「――――――ァァァァァッッッッッ!!!!」
その場に居合わせた三人は、この時のことについてこう語っている。
人があそこまで悲痛な声を上げることができるのだと、あの時初めて知った、と。
後書き。
良晴は撤退戦の間、犬千代と勝家の負担を減らすために、信奈の馬に相乗りさせてもらっていました。
っていうか、朽木谷でのイベントは良晴一人で事足りて、慌てる勝家はともかく、無口な犬千代の出番が本当に無い。
管理人感想
ダークレザードさんからいただきました!
殿を引き受けた太助。何をするかと思いきやいきなり火縄銃三段撃ちとは。
「おいおい、長篠の戦いどーすんのさ?」が正直な感想。本当に出し惜しみなしで来ているのがよくわかります。
信奈をかばって良晴撃たれる。
おいおい、特にフラグの立ってない太助に対してすら平静を失った信奈だぞ。こんなの目撃したら今度こそ壊れるって。
良晴が殿から外れて信奈の魔王化未遂イベントのフラグが消えたと思ったらここでまさかの復活とは。ということは同じく殿から外れたことで消滅した光秀との添い寝イベントフラグも復活か!? でも光秀は別行動中だし、だとしたら残る候補は……ひとりしかいませんがな(ニヤニヤ
……あと、犬千代の影の薄さはツッコまないのが優しさというものかと(ヲイ