「全員伏せろぉぉぉッ!」

式神軍団は執拗に太助を探し続けていた。
それに加えて朝倉勢の追手や、どんどん増え続ける落ち武者狩りの地侍や農民からも逃げ続け、生き延びている仲間の数はもう半分ほどに減っていた。
もはや皆、意識は朦朧となり、自分が生きているのかどうかすらわからないまでに疲弊していた。駆ける体力など、誰一人残っていない。

「……クソッ、時間感覚が無くなってきた……半蔵、ここはどこなんだ?」
「若狭と西近江の国境だ。水坂峠のあたりか」
「……やっと近江の入り口か」

あの時――土御門久脩の結界に包囲された時、ディケイドに変身して式神をディケイドブラストで一掃してみせた。
式神はどういうわけか、南蛮伝来の種子島を嫌う。
式神たちは逃げ散り、その隙をついて、太助達は京への逃避行に戻ることが出来たのだ。
だが、いたく自尊心を傷つけられた土御門は、どこまでも追ってきた。
弾薬も尽きかけ、長秀たちが整備した山道を通ることもできず、次々と脱落者が出ていた。

(残りの弾薬の量を考えれば、今度は確実に当てて倒さなくちゃならない。が、それができる腕の持ち主はいない。……ほかに弱点は無いのか?)

半ば泥の中に顔を埋めながら、太助は前鬼と半蔵をこっそりと手招きした。

「やれやれ。我が主の活躍に嫉妬するとは、土御門家も落ちたものよ。あれでも誇り高き安倍清明公を始祖に持つ陰陽師一族の頭領なのだがな。
 太助よ。陰陽師の時代は、そろそろ終わるべきなのだろうなあ」
「今は目の前の土御門だ。前鬼、式神に種子島以外の弱点は無いのか? 奴らだけでもどうにかできれば流れを取り戻せる」
「ふむ……ならば龍穴を塞ぎ、このあたりの龍脈を断つというのはどうだ?」
「龍脈……気の流れを断ち切るために、龍穴――気の吹き出し口をふさぐのか」
「うむ。召喚された式神は、龍穴から漏れてくる『気』を吸い込むことでこの現世に姿形を維持できるのだ。このあたりにある大きな龍穴を見つけて塞げば俺も含めて式神は尽く消え去るだろう」

その言葉を聞いて太助は考えた。厄介な式神集団と全力を出せない前鬼が引き換えなら戦力でこちらが有利になる。前鬼は消えても、また半兵衛に召喚してもらえばいい。

「それでどこにあるんだ、龍穴は」
「龍穴の多くは山にあり、その姿はたいてい洞窟、あるいは地に広がる穴だ。そして大地の『気』を悪しき術者から守る為に、龍穴がある土地には社が建てられていることが多い。
 叡山も、元は京最大の龍穴を祀る社であった」
「成程。でも、こんな人が踏み入ったことも無いような山奥に、社なんてあるのか?」
「おそらく土御門は社の無い土地に我らを追いこんでおる。龍穴の場所を知られぬためにな」
「となると、探すなら洞窟か。だけど向こうが俺達を追いこんでいるということはきっと……」

太助はしばらく考え込むと、半蔵に言った。

「半蔵。おそらく土御門は龍穴で待ち伏せている。だからもしもの時は――」

奴の目の前で、俺を殺してくれ。


第二十一話「微塵隠れと絶望と良晴の涙」


山中を探索すること約一刻。
崖から縄を垂らして谷底へと降りていた前鬼が「あそこだ」と一つの洞窟を指差した。

「かなりの『気』が立ち昇っている匂いがするぞ。あそこさえ封ずれば――」
「よしわかった。皆、ここからは手筈通りだ。全部終わるまで何があっても動くなよ。いいな!?」
「「「大将!!!」」」
「そんな顔するなよ。うまくやれば土御門だけじゃなく、賞金目当ての落ち武者狩りの連中もなんとかできるんだ。じゃ、行ってくる」
『HERO RIDE DECADE!』

太助はディケイドに変身すると、崖を駆け下って、洞窟へと進んでいく。
その時! 洞窟の中から、土御門久脩が操る低級式神の大軍団が、一斉に飛び出してきた!

「チッ! 予想通りとはいえ、ちっとも嬉しくないな!」

撃って撃って撃ちまくるが、数が違い過ぎる。
疲労と緊張の限界に達した体は、式神の爪や嘴で少しづつ傷ついていく。
崖から降りてきてその光景を眺めていた前鬼は、小声で囁いた。

「おい半蔵。そろそろよいのではないか?」

どこからともなく姿を現した服部半蔵が呟いた。

「……うむ。もうよかろう」

音もなく飛び立った半蔵は乱戦の真っ只中に舞い降りるとすかさず煙幕を張り、一時的に式神たちの視界を奪った。
変身を解除した太助が、その近くに歩み寄る。

「もう……なのか……」
「ああ。これから仕掛けるぞ、七梨太助」


「そろそろ終わりのようだね」

遂に洞窟の奥から姿を現した土御門久脩が、手にした扇を一振りした。
半蔵が張った煙幕が、たちどころに吹き飛ばされていく。
土御門久脩は見た。
血に塗れた服部半蔵が、凍てついた表情のまま、七梨太助の首筋に苦無の刃を当てていた。
崖から高みの見物をしていたはずの前鬼は……姿が見えない。
勝負あったと見て、逃げ去ったのか、式神軍団によって倒され、消えたのか……。

「どうやら、僕の勝ちらしいね。そいつの首さえ手に入れば、小汚い足軽共の首なんてどうでもいい。殺すのも面倒だから、見逃してあげるよ」

そして、半蔵は答えた。

「承知した。我が最後の焙烙玉をもって、七梨太助の五体を吹き飛ばそう」


京の都は騒然となっていた。
様々な噂が飛び交う中、ねねは妙覚寺で良晴の帰りを待ち続けていた。
そんな中、ねねは長秀の使いから「本能寺に来てほしい」との伝言を受け、一人で明け方の本能寺へ駆け込んだ。

「丹羽様。いったい何用なのですか?」
「……正直に言って、まだ幼いねね殿に告げるのは酷なのではないかと思いました」
「丹羽……様?」
「ですが、貴方は相良殿のただ一人の家族。どうか、どんなに辛くても相良殿の傍にいてあげてください」

長秀は、ねねを信奈の部屋へと案内してくれた。
だが。
いつもの元気でうつけな信奈の姿は、そこにはない。
代わりに布団が一つ。

「……兄様ッ!?」

良晴が、布団の上に仰向けに横たわっていた。
腹部に巻かれた白いサラシには、赤黒い血が滲んでいる。

「う……う……」

全身から弾のような汗を流しながら、良晴は力なく呻いている。
意識は無いようだった。
良晴のすぐ脇には信奈と「神医」と誉れ高い老翁、曲直瀬ベルショールが侍っていた。

「おうおう。ここは、戦場じゃ。子供が来てはならぬぞ」
「……あ……あ……兄様……兄様が、どうして……?」

ねねは、畳の上にへたり込んでしまった。

「弾を二発、脇腹に喰らったのじゃ。命を拾ったのが奇跡じゃ。並の精神力の者であれば、最初の失血の衝撃で既に死んでおる。相良殿はよほどの精神力の持ち主のようじゃ」
「弾を!?」
「南蛮式の手術というものを行ってな、体内の弾丸はかろうじて取り出せた。もしも腸にまで弾が届いておれば、もはや万策尽きておった所じゃが……これがもう一つの奇跡じゃ」

そう言って曲直瀬ベルショールは、ねねに、ある物を見せた。

「これは、兄様の……!」
「未来の南蛮時計、だそうじゃのう」

それは、良晴がこの世界に来た時の唯一の所持品であった、スマートフォンだった。

「雲母坂に差し掛かった時、いきなり相良殿が姫様を馬から突き落としました。その直後だそうです」
「偶然にも、二発の弾はこの時計に命中した。そのおかげで勢いを削がれた弾は体の奥までは届かなんだというわけじゃ」

ねねは、信奈を見た。
信奈はずっと虚ろな目で、良晴を見つめている。
自分を庇って死にかけている良晴を見て、心が張り裂けそうなのだと分かる。

「……姫様……う……うあああああ……!」
「……ねね……ごめんなさい……ごめんなさい……!」

お互いの手を握りしめて泣き声をあげる二人の後ろから、長秀がやんわりと、二人をいたわるように背中を撫でながら、声をかける。

「相良殿は今、生きるか死ぬかの瀬戸際なのです。最初の危機は曲直瀬殿の手術によって乗り切られましたが、お体より多くの血を失いました」

長秀の言葉を曲直瀬ベルショールが引き継ぐ。

「相良殿は人並み外れた精神力の持ち主じゃが、どうやら心に大きな傷を負っているようでのう。手術を耐え抜いた後から『気』が衰え始めておる。このままでは……」
「それって……サルが助からないかもしれないってこと?」
「死地に陥った人間を最後に救うのは、本人自身の『生きたい』という欲望であり意志の力なのじゃよ、信奈様。儂ら医師は魔法使いではない。
 医術に出来るのは人の命を救うことではなく、その手助けなのじゃ。相良殿はどういうわけかその意志がどんどん弱まっておる。にわかには信じ難いことじゃが……」

長秀は言葉も無かった。
どこでこんな間違いが起きてしまったのだろう。
七梨殿は、希望を繋ぐ為に命を賭けたはずなのに、今の織田家は絶望の中で崩壊しようとしている。
もう、信奈しかいないのだ。
だが、今の信奈に「お立ち下さい。そして戦ってください」と告げることは長秀には、とてもできない。

「……曲直瀬殿。いかがすれば。私はどうすれば……!」
「残念じゃが、これより先は医術の及ぶところではない。長秀殿、そなたが決めるしかない事じゃ」
「私ごときにはこの八方塞の局面を打開する策など……半兵衛殿も病床から目覚められぬままですし……!」
「落ち着くのじゃ、長秀殿。そなたがここで諦めたら、何もかもがお終いじゃぞ」

丹羽長秀は、温厚さと冷静さを兼ね備えた、まさにナンバー2に必要な能力をすべて備えた、織田家に必要不可欠な人材だが、ナンバー1――リーダー向きの人物ではなかった。
柴田勝家に至っては、武勇で兵士をけん引する突撃馬鹿。今もし兵権を任せれば太助の、何より信奈と良晴の悲劇を目の当たりにして激昂している勝家は
感情に任せて浅井朝倉連合軍へと突進し――共倒れになるだろう。
いや。長秀だって、心の底では今すぐ、全軍を率いて太助を救いに向かいたい。
例え京を失ってでも、全軍玉砕してでも太助を救い出し、良晴に代わって信奈に生きる希望を与えて欲しい。
だが……その勝算はほとんど零点です、とどうにか理性を残している長秀には結果が見えてしまっていた。
二人は、信奈という『太陽』があってはじめて戦国の世に輝ける『月』であった。
だがしかし、その太陽は今『絶望』という暗雲に覆われようとしていた……。


ねねは唇をきゅっと固く結ぶと、庭先へと裸足で駆け下りていた。

「神様でも仏様でも、おねこさまでもなんでもかまいませんぞ! なにとぞ、なにとぞ姫様と兄様を、お救い下さい……!」

井戸のもとへ駆け寄り、ねねは水垢離を始めた。
幼いねねに出来ることは、あまりに少ない。
それでも、ねねは何かをせずには、できることをやらずにはいられなかった。
長秀が「ねねどの。風邪をひいてしまいます」と制止するが、ねねは身を切るような水の冷たさなど、気にはならなかった。
そんなねねの姿を見て、「自分も、自分にできることを」と決めた者達がいた。


「丹羽殿は柴田殿と共に兵を率い、京で防備を固めてください! この十兵衛光秀が隠密として単身近江へ潜入し、七梨先輩を救出して参ります!」
「……犬千代も、行く。山野には、慣れている」
「わわ私も参ります〜」

明智光秀、前田犬千代、松平元康の、ぎりぎりまで殿の協力を申し出ていた三人が、長秀の前に推参して、太助の救出に名乗りを上げたのだ。
だが、たった三人ではミイラ取りがミイラになる、と長秀は犬千代以外の二人を押しとどめようとしたが光秀は、種子島だけ貸して肝心の撃ち手を貸すのを
綺麗さっぱり忘れる、という『うっかり』をやらかしていた負い目もあって、梃子でも動かなかった。

「しかし姫は、自分に万一の事があれば明智殿、そなたに後事を託すとかねてより漏らしておられました。相良殿がああなった今、明智殿まで死ぬようなことになれば……それでも行くのですか」
「この光秀、何をやってもそつなくこなせる天才でお利口者でしかも土岐源氏の血を引く高貴な美少女と自負していますが、それでも自分と信奈様の器量の違い位は心得ているです!
 信奈様のいない天下布武などありえないです!」
「……分かりました」

長秀は折れた。
謙遜しているんだか、自慢しているんだかわからない言い草だったが、自分の命を顧みずに信奈と太助を救おうとする、忠義の心を無下には出来なかった。
もはや自分にできることは、信奈が立ち直るまで京を守り抜くことだけだ。
誰もが動き回りたい今こそ、「動かず守る」という最も重く苦しい任務を引き受ける者が必要なのだ。その役目は、やはり自分がやるべきだろう、と長秀は決意した。

「しかし、さすがに松平元康殿は……貴方様は姫様の同盟者。京に釘付けになったままの三河兵をなんといたします」
「私も太助さんに大恩を受けている身です〜それに、吉姉さまを救えるのでしたら、ほとんど零であろうが最後の可能性に賭けるべきです〜。三河兵は全部、長秀さんにお預けします〜」

松平元康。
普段は、何を考えているのかわからず微妙に腹黒そうな掴み所の無い人物だが、三河武士の頭領だけあって、一度こうと決めたら梃子でも動かない頑固者だった。
よく言えば「ピンチになればなるほど、力を発揮する」タイプ、悪く言えば「尻に火、どころか大火事にならないと何もしない」というタイプか。
長秀はうなずいた。
これは、あまりにも大きすぎる賭けだ。

「……解りました。だが向かう先は敵地です。決して深追いせぬよう。生きて、戻られよ」
「「「承知!!!」」」


季節は、すでに冬。
織田軍をほぼ無傷に近い状態で京へ送り届けるという大任を果たした光秀・犬千代・元康の三人は、文字通り休む間もなく隠密として出立した。
実を言うと、犬千代は狙撃手の見当がついていた。
あの速度で駆けていた馬上の人に連続して二発も当てる、などという真似ができることから、おそらく下手人は杉谷善住坊。
犬千代は良晴が撃たれてすぐに敵を負ったが、取り逃がしてしまった。
だが雲母坂の周辺には逃げ場所が無い。
可能性としては一つ。
杉谷善住坊は叡山に逃げ込んだのだ。
善住坊自身が叡山の僧と何らかの縁があるのか、叡山を取り仕切る高僧が、信奈の上洛を快く思わず、反織田を表明するために善住坊を雇ったのか……。
いずれにせよ、杉谷善住坊が本当に叡山にいたとしたら、引き渡し交渉は難航するだろう。
多くの僧が僧兵となって武装しており、霊山と仏法を盾に京のすぐそばで独立王国を保ってきた、強大な忠誠権力の象徴たる叡山。
平安時代には鴨川の水、賽の目と並んで「法皇でさえ意のままにならぬもの」として挙げられたほどだ。
姫武将ばかりの織田家は、そもそも「女人禁制」を掲げる叡山に踏み入ることができないのだから。
だが今は、とにかく七梨太助の救出である。
三人は電光石火の速さで朽木谷に到着した。
太助隊が土御門久脩に追われて使うことが出来なかった、整備された退路と、そこに用意された替え馬や食料などがあったからである。
しかし、そこに太助の姿は無かった。
誰も通っていない、と視線が定かでない朽木信濃守が三人にまくしたてた。

「殿部隊はおそらく、まだ若狭との国境にある水坂峠あたりでしょう。あハハハハハ」

久秀との交渉の席で何があったのか、信濃守はけらけら笑いながら詳細に地形が書き込まれた地図を貸し与えてくれた。
さらに行軍は続き、そして――。
三人が水坂峠の頂に到着したのは、若狭川の谷底で、ディケイドが単身、土御門久脩の式神たちと戦っている最中だった。

「あそこです! 戦っているですよ! 七梨先輩が、あやかし相手に猛烈に暴れています! 流石です七梨先輩! あははははッ!」
「でもどうして一人なんでしょう〜。もしや太助さん以外は既に〜」
「……何としてでも助ける」

間一髪。
光秀たちは間に合った。
太助の命が風前の灯となっていたその時に、光秀達三人は間に合ったのだ。
ディケイドが攻撃をしのぎ切れなくなった、そこに服部半蔵が現れて戦場に煙幕を張ったのが見えた。
種子島を構えた光秀が叫んだ。

「式神どもはこいつに弱いと聞きます! 今です、馬で谷を駆け下りるです!」

後は、太助を救い、準備した退路で連れ帰る。
これで。
これで太助も信奈も救われた。
三人は、そう確信した。
だが。
三人は知らなかった。
この戦いそのものがすでに、七梨太助の臨んだ『最後の賭け』だったことに。


そして、半蔵が九字を斬って木の葉とともに姿を消すとほぼ同時に。

「約束しろ! 俺の命とあいつら全員の命、引換だッ! だがな、首を晒されるなんて恥、かいてたまるかよッ! 命はともかく首だけは渡さねえッ!
 ざまあみやがれクソガキッ!!」

太助が高らかにそう叫んだ、その直後。
式神どもが一斉に太助に襲い掛かった。
そして、突然の大轟音。

吹き飛んだ。木っ端微塵に。七梨太助の五体がばらばらに。ぽたぽたと、大地の上に、肉片が、降り注いできた。

この光景を目の当たりにした光秀の――。

「うわ……うわああああああッ……!?」

光秀の――心の中で、何かが音を立てて切れた。
よくも……!
殺す。
殺す。殺す。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す、殺す!
殺してやる……ッッッ!!!
背に担いでいた種子島を構えると、どうん、と少年陰陽師めがけて撃ち放った。
久脩は物憂そうに護符をかざして十兵衛の放った弾を防ぐと

「今の僕は最高に機嫌がいい。今回だけは見逃してあげよう。だが、追いかけてくるというのなら――殺すよ?」

にたり、と吸血鬼のような冷たい笑みを浮かべて、翼竜のような姿の式神に跨り、ふわりと空へ舞い上がった。

「誰が逃がすか! よくも……! 殺してやる……絶対に、絶対に殺してやる!!」

光秀は単騎、空を駆ける陰陽師を追った。
瞳からは光沢が消え、思考は完全に蒸発している。

「だ、駄目です! きっと、追えば罠があります……待ってください〜!」

元康が制止しようと声をあげている。
前方の大地に突然、裂け目が開いた。
しったことか。
七梨太助を殺した、あの陰陽師を殺せれば他はどうでもいい。
そして。
光秀は乗っていた馬ごと……深い深い大地の裂け目へと、落ちた。


「あ、あああ……そ、そんな……太助さんも、光秀さんも……そんな……!」

光秀の体は見えなくなった。
底が見えないほどに深い裂け目の底に、消えた。
到底、助からないだろう……。
残された元康と犬千代は、呆然とするばかり。

「半蔵、どうしてです〜? 太助さんを守ってくださいと命じたのに〜!?」

元康は、再度どこからともなく姿を現して平伏した半蔵を泣きながら叱責した。

「土御門の式神部隊を前に枕を並べて討死するか、自分の命一つで仲間全員を活かすか。極限の選択を迫られた七梨太助が自らの意思で選んだまでのこと」
「でも、これでは――」
「今の大轟音を聞きつけて、間もなく落ち武者狩りの連中が参ります。姫様がこのような少人数でこの場に来られてしまった以上、七梨太助を守る任務は中断します。
 これより我等服部党は全力で姫様を京までお守りいたします」

服部半蔵は、真に冷酷非情な男。
本来の役目に戻ることにいささかの揺らぎも見せなかった。


事態は風雲急を告げていた。
約三万五千の浅井朝倉連合軍は西近江街道を突き進み、ついに京へ迫ろうとしていた。
もはや信奈の復帰を待つ余裕はなく、丹羽長秀と柴田勝家は出陣を決意した。越前から敗走した際、七梨太助の殿部隊が敵の追撃を一手に引き受けたおかげで
壊滅だけは免れたとはいえ、何割かの兵を失っているため、果たしてどれだけの兵を集められるかはわからなかった。
その信奈は本能寺の控えの間にて横たわった良晴の傍で、呆然自失とし続けていた。

「うう……この一大事に、子供のねねはなにも出来ぬ。それが悔しいですぞ!」
「何もできないなんてことないです。この寒さの中、水垢離とお百度参りを重ねているじゃないですか。ねねちゃんの想いは、必ず良晴さんに伝わっています」
「でも、兄様は――兄様の、ご様子は――」

曲直瀬ベルショールとシャオは、顔を伏せた。
手術は、完璧だったはずである。
高熱にうなされてはいるが、いずれ熱は体内の毒と共に消え去り、熱が引くと同時に良晴は目を覚ますはずだった。
ところが、原因は分からないが精神を弱らせていた良晴は、高熱による悪夢を見ているようだった。その悪夢はさらに良晴の弱った体調を崩し、どんどん熱をあげる。という悪循環に陥っていた。
東洋と南蛮の医学を修めた神医・曲直瀬ベルショールといえど、心の病だけはどうすることもできない。

「ベルショールの爺さん。教えてくれよ、良晴さんはどうなるんだッ?」
「うむ……それはじゃな……」

翔子の詰問にも、ベルショールは言葉を濁すだけだった。
「翔子さん」と裾を引っ張るシャオの言葉に、翔子も悟る。幼いねねに、何より信奈には伝えられないのだと。
だが、二人は利発すぎた。

「サルは、もう助からない……のね……結局……私が……になった人は……」

まるで、ここだけが黄泉の世界になってしまったかのように、静まり返っていた。
そこに、招かれざる客が、ふらりと現れた。

「うふ。お爺ちゃん、そろそろわたくしが必要になったのではありませんこと?」

異国情緒溢れる、強烈な香り。
褐色の肌に、太股が大きく割れた唐風の衣装、そして長煙管。
そう。しばらく姿を見せなかった松永弾正久秀が、ゆら〜り、ゆらり、とおぼつかない足取りで曲直瀬ベルショールの前に現れた。

「あら、久秀おねーさん? 信奈おねーさんの危機に織田家を見限って、大和へ逃げたともっぱらの噂になってたぜ?」
「うふっ。京童はわたくしが嫌いなようですから。わたくし、信奈様の為に秘伝のお薬を調合していたんですの」
「だだだだ弾正ちゃん? い、一体何をしに来たのじゃ?」

曲直瀬ベルショールが、ぶるぶると恐怖に震えながら、久秀を指差した。
以前の、芥子の毒を一服盛られて多聞山城からゴミと一緒に捨てられた経験が未だにトラウマになっているらしい。

「ですから、そろそろお爺ちゃんの手に余る事態になってる頃かなあ、と思いましたの。信奈様は、心が壊れかかっておられるとか。うふっ」
「だからと言って信奈様に薬じゃと? 弾正ちゃんが? あやしいのう、あやしいのう」
「怪しくはありませんわ。波斯伝来の秘術にある、お気持ちが嘘のように楽になるお薬ですの。ただ、この国で原料を揃えるのがとても骨折りで、時間がかかってしまったまでのこと」
「それを使えば、姫様は元に戻られるのですな!」

と、ねね。

「はい。目覚めながら夢うつつの心地を味わえるのですわ。多少眠くなりますが、寝てしまうことはありません。人に裏切られたり、嫌な過去を思い出したりして
 心が張り裂けそうになってしまった時には効果的ですわ」

お願いしますぞ! とねねが久秀の手をきゅっと握って何度も頭を下げた。

「ねねちゃん。この女が操る波斯の薬はのう、ほとんど毒に等しいものなのじゃ。一つの効能がある代わりに十の害をなす、そのような危ない薬ばかりじゃ。
 弾正ちゃん、その波斯の秘薬とやら……人で試したのか?」
「ええ。わたくしもよく使っていますもの。良薬は口に苦しと言いますし、信奈様のお命が救われるのでしたら、多少の事には目をつぶっていただけますわよね?」
「いや、弾正ちゃん。そなたの体は、薬物や毒物を摂りすぎてすっかり毒に慣れてしもうておるではないか。体質も我等とは違う。参考にはならぬぞ、ならぬぞ」
「では、お爺ちゃんには信奈様をお助けする術があるのかしら?」

鋭い視線で睨みつけてくる久秀に尋ねられると、曲直瀬ベルショールはぐぅの音も出なかった。
これ以上何かを言えば、弾正ちゃんは儂ら全員を毒殺してでも信奈様に秘薬を飲ませるじゃろう、と直感した。
曲直瀬ベルショールが、不吉な想いに囚われながら、覚悟を決めようとした、その時。

「……母さん……?」

良晴が、うわごとを呟いた。

「……良かった……俺、帰ってこられたんだな……母さん」

瞬間、呆然自失としていた信奈が、良晴の手を握りしめた。

「……すげぇ怖い夢を見ていたんだ……俺……戦国時代にタイムスリップしちまってさ……いっぱい楽しいこともあったけど……最後は、撃たれて……死んじまうんだ。そんな、怖い夢……」

泣いていた。
いつも「俺様は天下の美女全てとイチャイチャする男・相良良晴だ!」と意味もなく偉そうに威張っていて、絶対に弱音を吐かない良晴が、子供のように涙を流していた。

「……俺、頑張ったけどさ……頑張ったんだよ……好きな子が出来たんだ。守りたかったんだ。あいつの為に、すげぇ無理して頑張ったんだ……でも、俺、全然力が及ばなくてさ……
 だって俺、まだ高校生だぜ? 戦争なんてできるわけねえ……! 目の前でどんどん人が死んでいくんだ。憎くも無い敵を殺さなきゃならねえんだ。鉄砲の弾が飛んでくるんだ……」
「……大丈夫。良晴。わたしは……ここに、いるわ。怖い夢は、もう終わったの。好きなだけ甘えていいのよ」

信奈は、そうささやいた。
自分の口から、こんなに母性に満ちた声が出てきたことに、心の中で驚いていた。

「……母さん。怖かった……帰りたかった……友達に会いたかった。学校に行きたかった。母さんに、会いたかった……」
「まったく。弱虫なんだから……流石は、平和ボケした未来から来ただけはあるわね。でも、良晴は頑張ったわ、本当に頑張った。勇気のある、強い子よ」

何時しか、信奈は良晴の頭を両腕で強く抱きしめて、自分の胸の谷間に、良晴をそっと包み込んでいた。

「……母さん……」

良晴の寝顔が安らかなものになっていくのがわかった。
相良良晴が育った未来の日本――そこは、数十年の長きにわたって戦をしていない、世界でも稀にみる平和な国なのだという。もちろん戦争そのものが消えたわけではなく、たまたま
自分が生まれてきた時代の日本が色んな巡り合わせで平和を保っているだけだと良晴は言っていたが――。
だから良晴も、その両親も、戦というものを知らないのだという。
この国が、遠い未来には、戦の無い世界に――
良晴はそんな遠い世界から来て、そして、自分には本来関係が無いはずの戦国時代で、人の死があまりにも近い世界で――ずっと戦ってきたのだ。

『俺は、お前には、楽しそうに地球儀をくるくる回して、夢を話す『人間』でいて欲しいんだ。『魔王』なんておっかないものになってほしくないんだよ……』
『……あの夜、いっただろう? 絶対にお前の夢を叶えてやる。俺が、俺達がお前の希望だ』
『夢も恋も、何一つお前には諦めさせねえ。俺には、身分も顔も腕もねえ――お前の夢を分かってやれるしか自慢がねえが……それだけはあの女たらしの長政にも、誰にも負けたくねえんだ』

信奈の為に、信奈の夢を叶える為に。
恐怖も孤独も涙も、何もかもを心の奥底に押し込めて。
ずっと、笑顔でいてくれていたのだ……。

「……良晴、偉いわ。貴方は、私の、誇りよ」

良晴の髪を優しくなでながら、信奈は囁き続けた。
眠っている良晴が微笑んだように、見えた。

「良晴……もう夢の世界へは戻りたくない? それとも……まだ、夢の世界で頑張れる?」
「……ああ……頑張れるよ、母さん。俺は……約束したんだ。だから、頑張れる」
「偉い子ね」

少しづつ、良晴の鼓動が強くなってきた。
もう、大丈夫だ。
良晴はきっと帰ってこられる。
だから――今度は、私が、戦う。

「ねね。サルをお願い」

そう言って、信奈は立ち上がった。

「姫様!?」
「大丈夫。私だって、まだ頑張れるわ。ううん、私はまだ夢の途中なんだから」

良晴の方を振り向くことなく出て行った信奈を見て、久秀は自分もまた立ち上がった。

「どこへ行くのじゃ、弾正ちゃん」
「また別の薬を取りに行ってきますわ。今度は、相良殿に必要なお薬を、ね」

どうやら、自分の出番は無かったようだ。
信奈様は、自分が考えるよりよっぽどお強い御方でした。それに、波斯の秘薬などよりももっと強烈な力を持つお薬をお持ちのよう。

「もうわたくしが煎じるお薬は、信奈様には不要ですわね、うふっ」


電撃復活を果たした織田信奈は、柴田勝家と丹羽長秀が編成していた二万五千の軍を率いて京より出陣した。

「ひひひひ姫様ぁ〜!! 良かったですッ!! これであとは太助が生きて帰ってくれば、織田家は安泰だッ!!」
「勝家殿。相良殿を無視するのはいかがなものかと、一点」
「六、決戦の地は坂本になるわ」
「さ、坂本。ですか?」
「叡山の東の麓に位置する重要な拠点です。ここを抜かれれば、後は京まで一直線。京に軍を入れられれば、我らの負けです」

長秀が坂本の地理的な重要性についてあれこれと教えるが、勝家はまるで意味が解らなかった。

「六。今回ばかりは短期決戦で勝敗を決しないと駄目よ。対峙が長引けば、甲賀の六角をはじめ、各地の勢力が続々と放棄してくるだろうから」
「かしこまりました、姫様ッ! この柴田勝家――戦場で悪鬼羅刹と化して姫様の恨みを晴らして御覧に入れますッ!!」
「期待してるわよ」

この戦は、同盟を一方的に破った卑劣な裏切り者・浅井久政に正義の鉄槌を下す一戦。
出陣の直前に、足軽達にもかの『信奈様の飼いザル』こと相良良晴が信奈を狙撃から庇ったことは知らされた。
その為、東海最弱と呼ばれる尾張兵たちの士気も、頂点に達していた。

「皆! サルは今も『生きる』という戦いを必死に続けているわ! 太助もそう! 二人の為にもこの戦い……必ず勝つわよ!!」


後書き
「信奈と光秀は似た者同士」とのことなので、光秀が心底ブチ切れたら第六天魔王モードになるかもしれない。
この時期の信奈も、惚れた男が弱さをさらけ出したらこうやって励ますことができるかもしれない。


管理人感想

 ダークレザードさんからいただきました!

 祝・信奈復活! 今回はこれにつきますな。
 瀕死の良晴を包み込む役目はやっぱり信奈になりましたか。一方で魔王化フラグは光秀に。うまくひっくり返しましたね。

 太助と光秀に関しては心配する要素がまったくありませんね。読者視点からだと太助の爆死が偽装なのが丸わかりですし、となれば光秀も太助にお任せでOKでしょう。
 しかし、果たしてどんな手口でその死を偽装したのか。一番あり得そうなのは「爆散したのはイリュージョンのアタックライドの分身」という線ですが……?
 そしてだまされたと知った土御門はどれだけ悔しがってくれるやら。そこが一番楽しみだったり(ヲイ