これまでの、織田信奈の欲望は!
「天台座主様より叡山を任されたこの正覚院豪盛様が、貴様ら姫武将どもに降伏を進める使者として参ってやったぞ!」
「いい? 速やかに武装を解除しないというのであれば、叡山そっくり焼き払うわよ!」
「このわらわの神がかった外交能力を駆使しまして、さくっと御綸旨をいただいて参りますわ!」
「あらゆる世界の悪が大同団結した大いなる大組織! それが我等『ビッグディザスター』だッ!!」
「『大日座星』? 何よそれッ!?」
「言ったでしょう? あらゆる世界の悪が大同団結した大いなる大組織だと。南蛮語で言えば『大災厄』という意味でしてね。目指しているものが何かそれで十分わかるでしょう?」
「うふ。つまりこの日ノ本を焼き尽くす、ということですの?」
「その前にやることがあるのですがね。おっと、自己紹介がまだでしたね。私の名は『シン』名の意味は『罪』
織田信奈よ。貴方の『世を乱す者』としての力を学び、取り込むためにやってきました」
その為には……とシンは朝倉義景を見る。
「貴方は去りなさい。織田信奈の『敵』の力を削ぐのは心苦しいので」
「織田信奈よ。相良良晴は私が必ず戦場で殺してやろう! そなたは現世が生んだ奇跡的な芸術作品。あのような痴れ者の手には穢させぬ!
どんなことをしても我が館に連れ帰り、閉じ込め、我が若紫として育て上げる。織田信奈こそは、余の母になってくれる女人なのだ!」
次は戦場でお会いしよう、と悠然と去っていく朝倉義景の後姿を眺めながら、信奈は体の震えを押さえることが出来なかった。
狂っている。あの男の目は狂っている。
理屈じゃない。まるで全身を視線で舐め回されたかのように不愉快で、不気味だった。
もしこの場に相良良晴がいたのなら、信奈は迷うことなく彼に縋りついていただろう。それほどまでに、朝倉義景は異常だった。
「さて、本題に入らせていただきましょう。先程も言った通り、私の目的は貴方の力を学び、取り込むこと。その為には、貴方が武田や上杉といった様々な戦国大名と
戦いを繰り広げてもらわねばならないのですが、あの男の謀略にばかり任せるわけにもいきません。そこでです」
ここでシンは、手に持っていたガンを信奈たちに突き付ける。
「貴方がたには、叡山を焼き討ちしてもらいます」
「何ですって!?」
「やまと御所の転覆をもくろみ、仏教の聖地を焼こうとする第六天魔王、織田信奈。日ノ本の敵として実に相応しい悪名ではありませんか。
大義名分に則って行動し、敵はそれに背かせる。応仁の乱がおこる以前から何度も繰り返されてきたことです。実際の下手人など関係ない。
おあつらえ向きに、あなた方は焼き討ちの下準備までも整えてくれていますしね」
「そんなことを許す俺達だと思っているのか!」
「思っていませんとも。ですからディケイド、貴方にはここで消えていただきます」
「消せばいいさ、できるものならなッ! 変身!」
『HERO RIDE DECADE』
「一人じゃ無理です太助君! 変身!」
太助はディケイドに、シャオはブルーメタルの防具を鎧い、シンたちと戦い始める。
「おい、正覚院豪盛! 二度と信奈さんに逆らわないって言葉に嘘が無いのなら、他の僧侶たちを逃がせッ!」
「な、なんじゃと? いや、しかし……」
「ごねるなッ! あたしはまだ暴れたりないんだからなッ! もっと殴られたいのかッ? きええーーッ!!」
「シ、シバタ様! これ以上の暴力はショウカクイン様がお可哀そうです……!」
躊躇う豪盛をさらに殴ろうとする勝家をフロイスが止めた。
散々自分たち宣教師を迫害してきた仏僧を庇うフロイスに信奈は疑問をぶつけるもフロイスは、「『汝の敵を愛せ』それがデウス様の教えです。この殿方は
幼き頃よりエイザンに籠って厳しい修行を続けられてきたため、女性を誤解なされておられるだけなのです」と豪盛を信じた。
そんなフロイスを見た豪盛。
「拙僧の如き駄目男を救ってくださった貴方様こそは、まさに観音菩薩様! ありがたや、ありがたや……! 何と、一切衆生をお救い下さる菩薩様が
南蛮の女人の姿で降臨されたとは!」
感動のあまり落涙しながら、フロイスの足元にがばっ! と平伏している。
「よくよく見れば、その輝くような金髪……碧い瞳……まさに菩薩様に相応しい異相! そして、そのあふれる母性を隠しきれないふくよかな乳房!
まだ見ぬ我が母とは、きっと、このようなお姿であったろうか!」
「……え? あの……?」
「これよりこの正覚院豪盛、貴方様を一生涯お守り申す! フロイス様を守護する武蔵坊弁慶となり申す! そう……死ぬまで! ああっ菩薩さまああああっ!」
がばあああっ! とフロイスの足をかき抱き、頬をすりすりしはじめた豪盛。
周りにいた僧兵たちも、実は根っから女に弱い豪盛の情けなさすぎる姿に失望して、勝手に逃げだしている。
「ちょ。や、やめてください!? わ、わ、わたしはデウス様と結婚した身で……だだだ誰か、助けてください〜!」
「何やってんのよエロ坊主! フロイスから離れなさいよ!」
「さらにタチが悪くなってるです! やっぱりぶち殺すしかないです!」
「良いから、さっさと避難させろぉぉーーーッッ!!」
第二十四話「叡山大火と初恋と動き出す者達」
ディケイド対シンの戦いは、根本中堂の中へと場を移していた。
ブッカーソードと二刀のビームソードが火花を散らす。
瞬間、一瞬の隙をついて、シンのネットがディケイドを縛り上げて宙づりにしてしまう。
「いったい、信奈さんの能力をコピーして、何をしようっていうんだ!」
「世界を乱す力……人類史上最大の欲望……ビッグディザスターの一員として相応しい人間でしょう?」
「ハッ、本物をスカウトできそうにないから、ホムンクルスか何かで妥協しようってのか。二兎を追うなら二兎とも取れぐらい言えないのか!」
「……言ってくれますね……ディケイドッ!!」
ソードを峰で合わせ一振りの大剣へと変えて、動けないディケイドに切りかかる。
しかし、その時ッ!!
一振りの刀が、大剣を受け止め、また別の刀がディケイドの戒めを断つ。
「信奈さん、光秀さん!」
「……犬千代もいる」
「避難は丹羽殿や山野辺殿に任せてきました! さあ、私達はこいつを!」
「この私を利用しようだなんて、随分と舐めたことを考えてくれるわね! 覚悟は出来てるのかしらッ!?」
一方外ではシャオ、勝家、久秀の三人が二体の怪人と戦っていた。
「ちょっと勝家さん。何か微妙にへっぴり腰になってませんか?」
「しょ、しょうがないだろッ!? ああああたし化け物とか苦手なんだよ〜! あうあうあう」
「うふふ。ところでシャオ殿。あの化け物には何か急所は無いのでしょうか。埒があきませんわ」
「……フィロの方は体のどこかについている石を壊せばいいんですけどデビルアーマーの方は普通に倒すしかありません」
「石……ですか。首筋のあれがそうであるのなら話は早いですわね」
「デビルアーマーの方は私がやります。ですけど……」
「あの動きを掻い潜って一撃でやるとなると、一瞬でいいので動きを止めなくては……」
春花の術も通じそうにないでしょうし……と久秀が呟くと。
「動きを止めればいいんだな? だったらあたしに任せろ! きえええーーッ!」
「あ、ちょっと、勝家さん!?」
怪人達に突っ込んでいく勝家。
敵との距離が、一定以上に縮まったその時、勝家は傍に転がっていた瓶を、槍で浮かせると、その瓶めがけて自慢の槍を振り下ろす!
「喰らえ! 秘太刀・瓶割大斬撃!」
ぱりん、と瓶が罅割れて木っ端微塵、四方八方へ破片が弾丸のような速度で飛んでいく。
それらの破片が次々と頭や背中に命中するが、どちらも倒れない。
しかし。
「今です! 稲妻斬り!」
跳躍から放たれた稲妻を纏った斬撃が、デビルアーマーを両断し
「人であることを捨てさせられた哀れなもの、その苦しみ、天に返しなさいな」
怯んだ隙に久秀の十文字槍が、フィロの核石を破壊していた。
信奈と光秀が左右から切りかかるも、再び二刀流に戻したシンはそれを防ぐ。
犬千代の突きを後ろに跳躍してかわし、着地してから右手をガンに変形させて、光秀と犬千代を狙い撃つ。
「させるかッ!」
咄嗟にディケイドが割って入り弾をすべて切り払うッ!
『FINAL ATTACK RIDE DEDEDEDECADE!』
光のレリーフをくぐりながらブッカーソードを構えて突進する。
そして、右切り上げでガンを切り飛ばし、すかさず唐竹割で左のソードも叩き落とす。
「今だ、信奈さんッ!!」
「てやあああッ!!」
シンが後ろを振り向くも時すでに遅し。
跳躍した信奈が太刀をシンに振り下ろすッ!
「うわあッ……!」
「止めだぁッ!!」
続けてディメンションスラッシュが炸裂した。
「あ……あ……ッ」
シンの、膝が、落ちた。
「勝った……と、思わないことです……。私の死など……ビッグディザスターにとっては何でもない……。私ではない誰かが引き継いで……
そして最後にやり遂げればそれで良いのですから……。このちっぽけな島国の上で、その日を生きるので精一杯の……貴方達には決して理解できない……でしょうけど……ねェ」
そしてシンは『不滅の法灯』に向かって倒れ込み、法灯を巻き込んで爆発した。
「……終わった?」
「……今は取り敢えず……としか言えないな」
「太助……時間が出来たら……話してもらうわよ。あんたがどこから来たのかとか、本当のことをね」
「はい。でも、今は帰りましょう。良晴さんが、待ってる」
「兄様! 兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様兄様〜! ねねは兄様のお目覚めをずっと待っていたのですぞ!」
京の本能寺。
雲母坂で撃たれて以来、ずっと意識不明だった良晴だが、やっと意識を取り戻し、妹のねねにむぎゅ〜と抱きつかれていた。
(あれなんでだ? こまっしゃくれてて、寝小便癖があって、女の子とイチャイチャするのを邪魔ばかりして、俺より算術が出来る、うるさいだけの
妹のはずなのに……やべえ。なんか、めちゃめちゃ可愛い! っていうか、なんか嬉しくって泣けてきた。戦国時代に迷い込んできた俺にも本当の家族がいてくれたんだなあ……)
色々不自由を感じさせられていたが、生きてる喜びも相まって、良晴はねねをはじめて、実の家族のように感じていた。
が、実の妹を知らない良晴は、その可愛さにときめくものの、接し方に悩んでしまう。
(……取り敢えず、頭を撫でてみよう)
撫でてみた。
困ってるような喜んでいるような微妙な表情をされた。
可愛い……!
「ぬぬ。いかがいたしましたか兄様、いつもと様子が違いますぞ」
「いやいや気にするな、家族への愛情表現だ」
「しかし金ヶ崎での兄様は姫様に夢中で、ねねのことを忘れていましたな?」
「いや、撃たれた瞬間にねねの顔が浮かんだ。俺の命が助かったのも、ねねのおかげだ」
「……えッ!? な、何か悪いものでも食べましたな、兄様!?」
ねねが照れてる……生きてて良かった……良し、今夜はねねと一緒に快気祝いだ、と良晴はうなずいた。
「あ、兄様、お土産の越前名物はありませぬのか?」
「いや……流石にお土産なんて買ってくる余裕は無かったからなぁ……」
「心配御無用!」
途端に障子がガラッと開いて風呂敷包みを持った太助が入ってきた。
「良晴さんが目を覚ましたと聞いて持ってきました。叡山名物の胡麻豆腐とゆばです」
「おおー。ゆばとはなんですかな、太助様」
「大豆を固めたもので、食感は麺に似てるかな」
「わかりましたぞ! それではさっそく、豆腐とゆばに八丁味噌をかけて煮込みますぞ!」
ねねは威勢よくお鍋を火にかけ……ようとしたが太助が止めた。
「ちょっと待った。良晴さんと秘密の話をしなくちゃならないんで、ちょっと出ていてくれませんか?」
「むむ。仕方ありませぬな」
では作って持ってきますぞ! とねねは部屋を出て行った。
「では改めて……今回はまた無茶をしましたねぇ」
「こちとらただの高校生だったんだ。お前ほどかっこ良くはやれねえよ」
「俺だって最初からかっこ良かったわけじゃありませんけどね。……さて、ついにここまで来ましたね」
「ああ。あいつは、桶狭間の戦いも、稲葉山城攻略も、上洛戦も、そして生涯最大の危機だった金ヶ崎の退き口も戦い抜いた」
「ですが、『歴史の強制力』の仕業か、あるいは革新者の宿命か。今川義元が将軍になっているにも拘らず『織田包囲網』は着々と作られている」
「畜生……戦国ゲームで仕入れた歴史知識もだんだん役に立たなくなってきてる。その証拠に金ヶ崎イベントを防ぐことにも失敗しちまった。
俺はいつか、いや、もうすぐにでも、信奈の力になれなくなっちまうのかもしれない……」
「でも……立ち止まる気はないんでしょう?」
太助の言葉に良晴は強くうなずいた。
「ああ。『本能寺の変』イベントだけは、起こさせねえ。それは絶対の絶対にだ」
一途に信奈を慕う十兵衛が、あんな謀反を起こすわけがない。
『歴史の強制力』が本当にあるのだとしたら、この世界では彼女以外の誰かが『明智光秀』を名乗ってそれを起こすのかもしれないが……。
いずれにせよ、相良良晴にはまだわからない。
わからないが――絶対に、織田信奈を守ると決めた。
生まれ育った世界で選ばれなかった、信奈が本能寺で死ななかったら、という『もう一つの未来』を、どうしても見てみたい。
(きっと、俺は、その為にこの戦国時代に来たのだから)
この身は木下藤吉郎と比べるべくも無いボンクラ高校生だが、「本能寺の変」の起こるタイミングを知っているという一点において勝っている。いや、勝って見せる。
例え、信奈の身代わりになろうとも、だ。
叡山との和睦を成立させた信奈は、休む間もなく六角承禎を討つべく南近江へと出陣した。
だが、なんとそこで斎藤道三と再会したのである。
借金取りの婆さん達に追い回されて美濃へ逃げ帰り、そのまま岐阜城で武田信玄を警戒していた道三は、矢継ぎ早に信奈を襲う危機の連続を歯噛みしながら静観せざるを得なかった。
武田信玄に攻められるリスクを考えると、うかつには動けなかったのだ。
『織田信奈、健在』『浅井朝倉叡山より撤退』の報が流れるに至って、道三は出陣に踏み切った。
総大将が健在であれば武田信玄は警戒を選ぶだろう。
そう判断し、浅井朝倉の撤退によって南近江に孤立した六角を叩き、京と美濃の間に再び道を繋ごうというのだ。
わすかな手勢のみで道三は南近江へ攻めこんで野洲川で六角軍と激突し、壊乱させた。
しかし、ここで計算外の事が起こった。
中山道を通って小谷城へ撤退中だった浅井久政が、反織田の味方である六角を救援するべく割って入ったのである。
だが、優柔不断で戦下手の浅井久政が、神算鬼謀の『蝮』斎藤道三に及ぶはずもなく、浅井軍は算を乱して潰走。久政も這う這うの体で小谷城目指して逃げて行った。
浅井の突然の割り込みで、六角承禎を討つことは敵わなかったが、この『野洲川の合戦』の勝利で道三は南近江の領土をほぼ奪回。
当初の目的を達成したのである。
そして、今。
信奈は全軍に半日の休息を命じて、自信も冬の琵琶湖の東岸に面した安土山の頂上に幔幕を張り、眼下に広がる琵琶湖の絶景を眺めながら、三人で夕食に興じていた。後の二人とは――。
「信奈殿。此度はそなたの危機だというのになかなか力になれず、申し訳なかったのう。何もかも金貸し婆共から逃げ出した儂の責任じゃ」
目を細めて、ういろうをかじっている斉藤道三。
「うふっ。本当のことをおっしゃい。逃げだしたのは金貸しからではなく、私との再会でしょう、蝮殿」
くすくすと笑いながら道三に茶を点てている、松永久秀。
「……そなたが立てた、この茶……ど、毒は入っておらぬであろうのう?」
「御心配には及びませんわ。良晴殿を見ていて、名実ともに『白弾正』になろうと決心いたしましたの」
「ふむ。そなたもあの男に変わる力をもらったのか」
「変わったお方なれど、信奈様を一途に想う気持ちでは私も負けそうですわ」
「そなたのは悪女の深情けというのじゃ」
「あら。貴方に悪人呼ばわりされたくありませんわね。私は主君を追い出して城を奪ったことなど一度もありませんわよ。一度愛したら、とても一途な女ですわ」
「だから、それがいかんというのじゃ」
「信奈様に美濃譲り状などをしたためた貴方が言っても、説得力がありませんわ。うふ」
斎藤道三と、松永久秀。
お互いに微笑みながらもいつ何時命のやり取りを始めるかわからない二人の梟雄。
「蝮と蠍が昔馴染みだったなんて、私、全然知らなかったわ。この狒々ジジイにいったいどれくらい金を貸したの、弾正?」
そんな二人の間にちょこんと正座して手羽先を「はむはむ」と齧っていた信奈が安心しきったような幼い笑顔を見せた。
道三と久秀は目を見合わせて苦笑した。
この二人は、金の貸し借りをした仲ではない。
かつては互いに惹かれあい、手を取り合って同じ道を歩みたいと思ったこともあった。
だがお互いの野望を譲らず対立し、別々の道を選んだのだ。
そもそも、道三は「天下統一を果たし、自由に商いが出来る世を作る」という『誕生』の道。
久秀は「自分を『異国の娘』と蔑んだ京の悪党どもに復讐する」という『破壊』の道。
最初から二人が結ばれるには、互いの道が離れすぎていたのかもしれない。
だが、二度と交わらないと思われた軌跡は――今、信奈という一人の少女に導かれて、奇跡的に交差したのだ。
「……はて。遠き日の事ゆえ、いくら借りたか忘れてしもうたのう」
「莫大な利息が付いていますわ。返済はご無理かと」
「まさか、そなたとこうして味方として再会するとは思わなんだわ」
「ええ。まことに人の縁とは、不思議なもの」
そう。もう昔の遺恨は持ち出すまい。
今の自分たちには、娘が、いる。
果たせなかった天下取りの野望を美しき夢として継いでくれた。
異形の自分を恐れることなく、母のように慕ってくれる可愛くて仕方がない、娘が。
「見て。叡山の向こうに夕日が落ちていくわ!」
綺麗ね……と、瞳を輝かせた信奈が西の方角を指差した。
小白鳥の群れが、湖面から次々と飛び立っていく。
今が、乱世であることを忘れるくらい、美しくのどかな光景だった。
「本当に綺麗だわ……まるで夢の世界ね。……現世を夢と例えた人たちも、こんな光景を見ていたのかしら」
信奈は、そう呟いた。そして。
「確かに、この現世も、人が眠りながら見る世界も、つかの間の夢であることには変わりはないわね、弾正」
しかしのう……と道三が口を挟むよりも早く、信奈は笑顔でうなずきながら言葉を続けた。
「でも私は、私と一緒に同じ夢を見てくれる人たちがいる、この現世の夢が好きだわ! だって、どれだけ幸せな夢でも、一人ぼっちで見ている夢は寂しいじゃない。
私は――例え儚い夢であろうとも、何もかもが私の思い通りになってくれない世界であろうとも――私は、皆と一緒に生きているこの現世が一番大好きよ!」
道三も久秀も……。
言葉の代わりに、信奈の頭を優しくなでていた。
本当に。
いつまでも……いつまでもこの穏やかな時間が続けばよいのう、と道三は祈った。
「先輩。私達も信奈様と一緒にたこ焼きをいただくです。我が旧主・道三様ともしばらくお会いしておりませんでしたし」
「光秀さん……流石に親子の団欒に割って入るのは空気読め無さすぎです」
「うーん、それもそうですね。ところで先輩、金ヶ崎で貸してやった種子島五十丁。いーかげんに耳を揃えて返すです!」
「あ、急に光秀さんの『うっかり』のせいで俺が死にかけたこと、面白おかしく良晴さんに話したくなってきちゃったな〜」
「うっ!? ……の、残った分を返してくれればもういいです……」
安土山の麓。
信奈達を遠巻きに守っている太助と光秀だった。
「しかし、光秀さんも今回の件で一城の主ですか。よっ! 織田家初の城持ち大名!」
「ふふん。褒めても何も出ませんが、もっと褒めちぎるがいいです先輩♪」
と、言いつつも光秀はこの時、本能寺に泊まっていた信奈に突然呼び出された時のことを思い出していた。
信奈は叡山の押さえとして坂本に城を築き守るよう、光秀に命じた。元々、種子島による銃撃戦がこれからの合戦の花形になると考えていた光秀はいい機会と腹案を述べた。
これからの城砦には「水」が必要になる。
城塞の外側に広大な堀を築いて水を流し入れることで、敵の進撃を防ぐ。
必要な水は、川や湖から引き入れる。その為には、平地に城を築かなければならない。つまりは「平城」にして「水上の城」
「坂本に建てる城は琵琶湖を背負い、前方に広い堀を構えた「水上の城」としますです。坂本城を琵琶湖に連なる水路の拠点とすることで、信奈様が美濃から京へ移動なされる時間も
大幅に短縮できます。これで、清水寺の戦のような危急の事態にも迅速に対応できるようになりますです」
また戦とは無関係になるが、久秀が自城の多聞山城に築き、白く輝くまことに美しい宮殿であると日ノ本中の評判になっている「天守」なる新奇な建造物について
学び、乱世の終息と平和の到来という『希望』を人々に示せる荘厳な天守を坂本の城に建てたいと思う――。
「……い、いかがでしょうか、信奈様?」
「十兵衛……、貴方の構想は素晴らしいわ! 弾正の発想をいただくのはちょっとこすっからいけど、でも、やっぱりあなたって天才だわ!」
「いえいえ。そんな本当のことを言われると、照れるです♡」
「貴方の思うとおりに造って頂戴。でもね、坂本城に城代はいらないのよ」
「と、言いますと?」
「貴方に坂本の城を任せるわ。城主になって。石高は五万石ほどになるわね」
「……し、城持ち大名になれと仰せですか!? しかし、この光秀はまだ織田家に仕官して間もない新参者! そ、それに功績の大きさでは金ヶ崎で殿を成し遂げた
七梨先輩の方が光秀よりもはるかに大きいです!」
「太助はいいのよ。ちょっとした事情で客将のままでないといけないの」
「は、はあ……しかし。この十兵衛光秀が天才でお利口で高貴な血筋の生まれで気高き美少女であることは太陽が東から登って西に沈むくらいに確かな
事実ですが、しかしながら七梨先輩に比べれば大して活躍していませんし……」
太助当人か翔子が聞いていたら「あんたはいちいち自画自賛しなきゃ喋れないのか?」と突っ込むこと間違いなしの台詞で謙遜する光秀。
「十兵衛は我が身の危険も顧みずに太助を救いに行ってくれたでしょう? それで十分よ」
「はあ……とは言いましても、先輩は土御門の待ち伏せも見抜いてましたし、それに引き換え私は怒りに我を忘れて逆に先輩の足を引っ張ってしまいましたし……やっぱり」
信奈は光秀の手を堅く固く握りしめて、そして、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
「……ありがとう……私の友達を守ってくれて本当に、ありがとう」
あの滅多に家臣に頭を下げない信奈が、こんなにも喜んでいる。
光秀の胸は締め付けられた。
この御方の為なら、自分は何だって頑張れる。そう思った。
「これからもどうか太助をお願い。あいつ、弱っちい癖に、変な勇気だけはあるサルを助けるために無茶してばっかりだから。でも十兵衛がこれからも太助を守ってくれるなら、あたしも安心できるわ」
「御意です。ご命令とあらば、七梨先輩の事はこの十兵衛光秀にお任せください!」
「ありがとう。重兵衛が太助を救おうとしてくれたこと。私、決して忘れないわ」
近江坂本五万石は、太助に手を伸ばしてくれたことへの恩賞――そうとわかれば、光秀も引き受けざるを得なかった。
「――というわけで、これからはこの十兵衛光秀が先輩の面倒を見てあげることにしたです。まあ、水坂峠で約束もしてしまいましたし。ふふふ」
「? 何一人でニヤニヤしてるんですか?」
「でもでもいきなり女の子から結婚を迫るなんてはしたないですよね。これから坂本城の普請で忙しくなりますし。とはいえ段階を経て徐々に仲睦まじくなっていけばいずれは祝言をあげちゃいそうです。
私は全然気が進まないですけど、主命ですので仕方がないのです……きゃっ♡」
「城持ち大名になって嬉しいのは分かりますけど、浮かれすぎてません?」
「いえいえ。坂本城はいずれ七梨先輩の城になりますですから、そのあたりはご心配なく」
「は? それどういう意味?」
「それはぁ……、嫁入り前の乙女の口からは恥ずかしくて言えないですぅ♪ きゃあっ♡」
「……何で愛原と話している気になるんだ……? 絶対にろくでもない意味に違いない……」
「お市、気をしっかり持つんだ。必ず助けは来る」
「気をしっかり持ってほしいのは、貴方のほうです。勘十郎」
「心配御無用。僕はこう見えて結構体力があるからね。ははは」
「でも、声に元気がありません」
琵琶湖に浮かぶ孤島、竹生島。
「お市」こと浅井長政と、元「お市」津田勘十郎信澄は、かつて長政自身が久政を幽閉した、この島の地下牢へ久政によって幽閉されていた。
長政はあくまでも「狂気が落ち着くまでの」一時的なものであるため、立派な牢座敷に一日三度の豪華な食事という待遇だった。
しかし信澄は違う。
捕らえた信澄の正体が男であったことを知った浅井久政は激怒し、初めは信澄を殺そうとした。
だが、人質としての価値くらいはあると気付き、長政と共に竹生島へ流したのだ。
無論、牢は別々の狭くて湿気た、満足に体を起こすこともできない石牢で、食事は一日一杯の粗末な粥が与えられるだけ。
このままでは信澄は衰弱死してしまうだろう。
いや、それよりも。
戦国乱世の大名家に生まれた者同士という利害を超えて愛し合う二人にとって、互いの顔も見られず、指を触れ合わすこともできないことが何よりも耐え難かった。
長政は何度も牢番に「どうか勘十郎と同じ牢へ入れてくれ」と懇願したが、牢番の兵は困ったように「決して二人を近づけるなと大殿さまからの命令ですんで」と首を横に振るばかり。
だが、引き離された二国を代表する美男美女の夫婦を哀れに思っているのか、二人が会話をする時に限って、洞窟の入り口を見張りに行っている。
「いいかいお市、気をしっかり持てば耐えられる。姉上が種子島で狙撃されて死んだという噂を牢番から聞かされたが、姉上はそう簡単に死ぬような人じゃない。必ず、助けは来る」
「……はい」
信澄は声を潜めて言った。
「サル君が乱破君をこの北近江に置いて行ってくれた。脱出の機会はあるさ」
「勘十郎……。私は、父の子であることが恥ずかしい。この近江に籠り続けていた父は、何も分かっておられない。武家として相応しく振る舞うことしか考えていない……」
「お市、そんなことを言うものじゃない。久政殿だって君が天下人に相応しいと信じたから立ったんじゃないか」
「いいえ。父はただ他人に利用されているだけなのです。朝倉から天下を譲られても、浅井が朝倉の言いなりになることにも気づかないで……」
「お前の親父が馬鹿だってことには同意するが……そういうお前は何かしたのか?」
突如、全く別の声が聞こえた。
顔を上げた長政の目の前に、一人の少年が立っている。
「お、お前は……?」
「通りすがりの超戦士……ってところかな?」
そう。それは清水寺にて良晴を助けた報酬として、九十九茄子を盗み出した石川剣だった。
そして入口で何かが爆発する音もした。
「浅井氏、津田氏、お待たせしたでござる! 泣く子もだまるはちちゅかぎょえ……お、おにゅしにゃぜきょきょに!?」
「流石にサル一匹の命と九十九茄子じゃあ、貰い過ぎと思ってな。後二人くらい助ければちょうどいいと思ったのさ」
とにかく助けが来た。
信澄と長政は、牢から解放されて、互いに堅く抱き合った。
「そういうのは後でござるよ! 今はとにかく逃げ切るでござる!」
「おお。そうだったね乱破君」
「待ってくれ、私は父に言っておきたいことがあるのだ」
「浅井氏。まずは安全な場所まで逃げるでござる。交渉はその後で!」
「いや。私は小谷城へ向かう。家督を奪い返さねばならぬのだ」
「そいつは無理だ。浅井久政は、もうまともに話し合えるような状態じゃない。第一あいつは、小谷城にはいないぜ」
「なに? それはどういうことか?」
「おっと。そいつは追手を振り切ってからの、お楽しみにしとこうぜ!」
ぼむ、ぼむ、ぼむ! バン、バン、バン!
洞窟へと殺到してきた浅井の見張り兵たちを、五右衛門は煙幕を張って、剣は威嚇射撃で足止めして、次々に振り切っていく。
五右衛門と川並衆が長い時間を変えて準備した、完璧な逃走経路を駆け抜け、一行はあっという間に湖上の人となった。
ふい〜と安堵のため息をつきながら五右衛門は、信奈は良晴に守られて無傷であること、その良晴も生きていること、織田と浅井朝倉は御所から綸旨をいただいて和睦したことを打ち明けた。
まあ、やっぱり途中から何を喋っているのかわからなくなったが……。
とにもかくにも、両家の正面衝突は回避されたことを、信澄と長政は喜び合った。
「ところが、ここからは最新の情報だ。浅井軍は小谷城へ絶賛『敗走』中だぜ」
「どういうことだ? 和睦したのではなかったのか?」
「したさ。だが小谷城へ退却中、南近江を巡って交戦していた道三と六角の間に割って入ったんだよ。六角を助けるためにな」
「!!」
「な、なぜだい!? 久政殿は事を構える気が無かったとはいえ、浅井家にとって六角は仇敵じゃないか!」
「『敵の敵は味方』ってことなんじゃねえのか? 浅井久政の中ではな」
剣の言葉が真実であると、長政たちはすぐに知ることとなった。
琵琶湖の岸に到着し、船を下りた時、崖の下の街道を無残に敗走している浅井軍を偶然に目撃したからだ。
どの足軽達も、傷を負い、血を流し、斎藤道三の幻影に怯えきっており、余ほど徹底的に叩きのめされたことが窺える。
そんな敗走兵の群れの中に、手傷を負った浅井久政の姿もあった。
一子長政に天下を盗らせるために、戦下手の小心者でありながらあえて一世一代の勇気を奮い起こし、立ち上がった。
にもかかわらず、天下どころか浅井家の運命を風前の灯へと追い込む有様。
自分に今少しの戦の才があれば……これでは長政に申し訳が立たぬ……と久政は打ちひしがれていた。
浅井軍の潰走を眺めていた長政たちのもとへ、浅井家の三家老が駆け寄ってきた。
「おお……貴方様は、長政様ッ!?」
「猿夜叉丸様! まさか父君をお迎えに来ていただけるとは!」
「なにとぞ、浮足立っている足軽共の前にお姿をお見せくだされ! この窮地、長政様がおらねばもはや脱することはできませぬ!」
「久政様は小谷城に戻り次第、浅井家を滅ぼした責を取って自刃なされるおつもり! しかしここで竹生島遠島の件を水に流してくださり、猿夜叉丸様が陣頭に立てば……」
「浅井家は救われまする!」
今、目の前で、浅井家が、滅び去ろうとしている。
なのに、長政は何とも思わなかった。
それは、父・久政が優柔不断で臆病で、そのくせ武家のメンツと自分の欲望を同時に満たそうとして、「あの」六角を助けようとして無用の犠牲を出したと知ったからかもしれない。
目の前の家老たちも、朝倉の使い走りの天下をこの猿夜叉丸に捧げるという、父の欲望に同調したのだ。
そうだ……。浅井家の当主になって、自分は満たされたか?
胸を張ってそう言えるのは、隣にいる、お調子者でお気楽でひ弱そうなこの男が浮かべる、包み込むような笑顔を見ている間だけだったではないか。
「長政様!」
「……父上に伝えて欲しい」
「はッ!」
「猿夜叉丸は、女として津田勘十郎信澄と添い遂げる。浅井家当主は朝倉でも六角でも、何処から養子をとり、その者に継がせればいい。となッ!」
この時、浅井長政の運命はあるべき形から大きく変化した。
だが、それを知っているのは、この男だけであった。
「またしてもこの世界の破壊が進んだ……。いったいどこまで破壊すれば気がすむのだ……! おのれ、ディケイドォォォォォッ!!」
根本中堂を舞台に行われた、織田信奈とビッグディザスターとの戦いは「織田信奈、叡山焼き討ち」と悪意を持って誇大に宣伝され、全国に広まった。
東北地方、出羽国は米沢城。――の一角の森林に立っている漆黒の南蛮教会。
見た目だけでなく屋根に掲げられている十字架もしっかり上下逆様のアンチクライストな教会では――。
「ふはははは! 聞いたか小十郎! 八百年の伝統を誇る叡山を丸焼きにするなどと! 織田信奈め、それでこそよ!」
梵天丸こと、伊達輝宗の長女・伊達政宗は信奈に感心していた。
「あ〜〜ん姫様ぁぁぁッ!! やっぱり堺で織田信奈にかぶれてしまったのですね〜!? シャオさんがご家族と再会できたのはよかったですけど〜」
この子は片倉小十郎。
梵天丸が生まれた時からお守役を仰せつかり、それ以来女の子でありながらお小姓姿に扮して周囲の偏見にいじけ、母・義姫の超スパルタ教育に心折れそうだった
梵天丸を懸命に励ましながら世話をしてきたのだ。
ようするに、梵天丸の我儘にずっと振り回され続けてきた可哀そうな子でもある。
「小十郎! 我はこれより『邪気眼竜正宗』と名乗り、我が必殺の邪気眼で欧州を席巻してくれる! そして最後には織田信奈に勝利して真の大魔王『黙示録のびぃすと』となって
世界を舞台に大暴れするのだ! フハハハハハ!」
越後、春日山城。
琵琶の音色が響いていた。
弾き手たる少女は、己の心が揺れた時、無心に琵琶を鳴らすことにしていた。
琵琶の音は、彼女が彼女であり続けるために無用の物を吐き出している証。
「梵天丸は竜なのか、魔王なのか……兼続を待つしかない」
その声音はまるで天から鳴り響いてくるかのように透明だった。
声だけではない。
両の瞳は真紅、髪は白銀、その肌は雪よりもなお白い。
春日山城の主たる彼女に仕える者達は心の底から、この十八になるかならないかの少女は尋常の人間ではなく、毘沙門天の化身であると信じており、それ故に戦においては死兵となる。
「……体を激しい野望の炎で燃やし、天下布武を掲げ、道ならぬ恋に生き、己の感情を爆発させ続けているもの……第六天魔王」
少女の父はあまりにも人を殺し過ぎた。
少女は己が、父の因業を背負って生まれたのだと信じている。
故に少女は生涯不犯を誓い、自らに恋も愛も禁じた。
少女にとって生きることと義の為に戦うことは同義。全ては戦に勝ち続ける為、正義成す毘沙門天として地上にある為に。
「何故だろう、その者の名を聞くだけで私は胸が締め付けられる」
胸を締め付ける感情の名を少女に教える者はいない。
何故なら少女の周りの人間にとって、少女は毘沙門天であり、「人間」ではないのだから。
「私はきっと、貴方と戦い、貴方を滅ぼし、共に天へと還る。それが、私がこの地上に呼ばれた意味」
少女の名は上杉謙信。
アルビノとして生まれ、毘沙門道に籠って日光を避けるうちに、直感が限界まで研ぎ澄まされた、ただそれだけの『ニンゲン』である。
甲斐国。
武田信玄晴信が納めるこの山国には、戦国大名が本拠にするような巨大城塞は存在していない。
躑躅ヶ崎館という、簡素な武家屋敷が信玄の本拠地だった。
これは正史で伝えられるように、信玄にとって自らの家臣団こそが城であったから……ではない。
ただ単に、攻めることしか考えていない信玄にとって、守る為の巨城など金と労力の無駄だったからである。
物心ついた時から、孫子の軍学に夢中になっていた「全身戦国大名」の信玄は、父を追放して家督を奪うと、領土拡張のため阿修羅の如く戦った。
今では領土は上野、駿河、飛騨、遠江とあわせて百二十万を超える。
まさに「最強の戦国大名」に相応しい存在。
そんな信玄が上洛していなかった理由。
それは謙信との恒例行事「川中島の戦い」を行うためともう一つ。
彼女が無類の内政マニアだというのがあった。
山国である甲斐は米が採れないが、金山があちこちにある。
信玄は金を惜しげもなく軍事費や、新領土の治水工事や田畑の整備につぎ込む。すると生産力はさらに向上して人が集まり金が増える……という実に豪快な拡大主義政策を推し進める。
民には慕われ、武は謙信に匹敵し、家臣団は一人一人が戦国大名を務められるほどの実力者揃い、しかも信玄のカリスマによって完璧に統率されている。
まさに戦国乱世の覇王。
そんな信玄が、天台座主・覚恕を接待しながら「あたしに大僧正の位をくれ!」とあからさまに匂わせていたところへ、近衛前久から「信奈、叡山を丸焼きにする」という意図的な誤報が届いた。
「これは一大事、拙僧、もはや帰るところが無くなってしまった」
「はははは! 織田信奈め、やるじゃねえか!」
「信玄殿、笑っている場合では」
「謙信ちゃんは越後に巣篭りしちまったし、今川義元の領土はぶんどったし、暇つぶしに上洛すんのもいいかもな」
武田信玄が、スラリ、と立ち上がった。
やんごとなき姫武将だが、この時代の女性としては割と大柄である。
腰まで伸ばした長髪、飢えた虎の如き傲岸不遜な視線。
その死体は肉食獣のように引き締まりながら、出るところは出て下衆な意味で柴田勝家にも負けていない。
まさに『美獣』の二文字が相応しい迫力だった。
「右筆、こう書けよ! おいこら第六天魔王。あたしはそろそろ京に上りたくなった! てめえはこの天台座主・武田信玄様が力の限りに成敗してやる。首を洗って待っていやがれ!とな。決まったぜ」
「……あ、あの……。天台座主は、この覚恕なのですが……」
「ああん? 第六天魔王に喧嘩ふっかけんだ。そんぐらいのハッタリ効かせた方が気分でるだろうがよ? 細かいこたぁきにすんな」
「……いや、細かくは……」
「勘助! まだ生きてるかぁ〜!?」
だんッ! と信玄が床を踏むと同時に、頭を剃り上げた僧形隻眼の小男が音も無く覚如の背後に現れた。
「――は……。山本勘助、ここに……」
覚恕は驚いた。
山本勘助は先の川中島の合戦で策を上杉謙信に破られ、討死したと聞いていたからだ。
「確かに某は策を破られ、死ぬつもりで前線へ突撃しましたが――こうして生き恥を晒しております」
「勘助! 今度の戦は天下盗りの総仕上げとなるぞ! あたしにはまだお前が必要だ!」
「……は……」
「……なーんか、お前っていつも陰気だよなあ? あたしのやる気に水を差すのが趣味なのか?」
「……とんでもございませぬ。出家の身でこの年まで生きれば人間、このようになります」
「よーし。じゃあやる気を出させてやろう。四郎! 四郎! ちょっと来い!」
「あ〜い。あねさま〜」
武田四郎勝頼。
信玄が攻め滅ぼした信濃の諏訪家の姫である。
豪快なれど子供好きの信玄は、四郎のあまりの可愛さに自分の義妹にしていた。
当年とって七歳の童女である。
「おう四郎。姉の膝の上に乗れ!」
「あ〜い〜」
「おおおお……かっ……勝頼様ああああ〜!」
山本勘助の形相が、くわっ! と一変した。
隻眼は血走り、頬は真っ赤、坊主頭からはだらだらと汗が滴るなど、年甲斐もなく興奮しているのが丸わかりである。
そう。
生涯独身、軍師の道を貫いてきた山本勘助――。
幼き姫が大好きであった。
中でも四郎勝頼は、好みど真ん中。
ちなみに彼は「露離魂」というわけではない。
ただ純粋に、その愛らしい御姿を拝見するだけで、心が極楽へ舞い上がるほどの幸せを感じるだけである。
「四郎。この姉が教えた通りの言葉を言ってやれ」
「あい。かんすけ、あねさまを、きょうへつれていってたもれ、おねがいじゃ」
「ぬおおおおおおお〜!? いけませぬ、いけませぬ勝頼様あああ! 某などに頭を下げてはなりませぬうぅ〜! 鼻血が、鼻血が……!」
重ねて言う。
露離魂ではない、純粋な愛情なのだ。愛情なのだ。
「御意にございまする! この山本勘助、此度の上洛戦にて悪鬼羅刹と化し、川中島での汚名を注ぎまする〜!」
米つきバッタのように四郎勝頼の御前に平伏する勘助。
がばっ! と顔を上げた時にはもう、楽隠居寸前の枯れた陰気な男『山本勘助』は消え、抑えきれない漆黒の『気』を溢れさせる悪辣な軍師『山本勘助』が現れていた。
「……くっくっく……! 日ノ本広しといえども御館様にかろうじて太刀打ちできるは、越後の上杉謙信ただ一人。織田信奈、斎藤道三、松平元康は所詮ただの戦上手。
日ノ本最強の御館様の下に、この軍師・山本勘助がある限り、討ち滅ぼされるのみであります」
「ふふん。いーい顔になったじゃねえか勘助。出陣の景気づけにいっちょ占ってもらおうか! 百発百中の易でな!」
「御意。しかし御館様。某が操るは、駅に非ず。宿曜道と申しまして星々の運行より人間の天命を読み取る術にござりまする」
「わかったわかった」
勘助は、星々が描かれている天球図を小物に準備させると、神妙な表情でその天球図を回転させ始めた。
「ふぅむ……。……うむ。幸先良し! 御館様、西に輝く巨星が地に堕ちようとしております。敵将の命運、間もなく尽きまする」
「はん。そいつは誰だ?」
「織田信奈。あるいは斎藤道三。二人のうちいずれかが! この両者は、共に手を携えて天下を望むという天命を与えられておりませぬ! 一方の星が輝けば
一方は必ず堕ちねばならぬ。そのような定めにござりまする。今は何者かが両者の天命に介入し、両雄を並び立てるという、あってはならぬことを引き起こしておりまする」
「ほう……? 面白い話だな。そんな不可思議を起こしているのはいったい誰だ?」
「何者が、いかなる術を持って天命に介入しているのかまでは……。宿曜道も人の技、限界というものがござりますれば……」
「そうか。ならば、真田の者を動かして調べる価値があるな。天命を動かす者、か……」
信玄はニヤリ、と笑った。
「面白いじゃねえか。あたしにとって上杉謙信を超える生涯最強の好敵手になるかもしれん……ふふっ。胸が疼くぞ!」
自分の力を超える、強者と戦いたい。
武田信玄の欲望はただそれだけだった。
天下など、拾おうと思えばいつでも拾える程度のちっぽけな代物だった。
京よりも、上杉謙信との血沸き肉躍る合戦の方が魅力的だったのだ。
だが織田信奈のもとにはあたしの――未だ見ぬ運命の敵がいるらしい。
ならば。
上洛しない理由は、無い。
「勘助! これよりなお、道三坊主と織田信奈、この二人が共に手を携え続ければいったいどうなる?」
山本勘助は、ニタリと笑みを浮かべながら、揺るがぬ確信を持って答えた。
「両者がこれ以上天命に叛き続ければ、揃って『破軍の星』を背負う定め。即ち――共に滅ぶのみでございまする」
「――哀れだな。ようやく得られた父を再び亡くすのか。だが、それが織田信奈の宿運なのかもしれん」
実の父を追放して、ここまで来た信玄は、この時ばかりは気の毒そうに信奈を思いやった。
「御館様。実は一つ申し上げたきことが」
「なんだ」
「実は先日より宿曜道を行うたびに、同じ兆しが見えるのでございまする。『巨大な闇』が日ノ本を覆い尽くすであろう、と」
「巨大な闇、だと? そいつは一体なんだ」
「わかりませぬ。ただ、そのような得体のしれない暗く恐ろしい『何か』がいずれ来たる、としか」
「ふ、ん……わかった、覚えておこう。勘助! 武田四天王を全員召集しろ! 此度の戦は、あの川中島を超える壮絶なものになるぞ!」
武田信玄は、まだ見ぬ強敵との邂逅の予感に身震いしながら高らかに唱えた。
疾きこと風の如く、
徐かなること林の如く、
侵略すること火の如く、
動かざること、山の如し。
巨山――ついに動く。
後書き
四巻編終了。
一時間スペシャルのノリでかなりの量になってしまいました。
この先は、さらに独自の展開が増えてきます。
管理人感想
ダークレザードさんからいただきました!
フロイスの慈悲の心に豪盛陥落。聖女の面目躍如ですな。
しかし豪盛。崇拝するのはいいがそのおっぱいは渡さんっ!(黙れ)
とりあえずシンはあっさりと倒れましたが、『信奈の世界』での物語はまだまだ続く。ビッグディザスターもまた出てくることでしょうね。
まぁ、いつ再登場するかわからない連中よりも今は目の前の問題ですが。ついに動き出した武田信玄、その実力やいかに……?
そして彼女もまた良晴よりも太助をスカウトしてしまうのか!? 光秀に続いて信玄にまでシカトされてしまう原作主人公・良晴の未来はどっちだ!?(すでにシカト確定かい)