織田信奈の欲望、前回の三つの出来事!
一つ! 光秀は信奈の願いを取り違えて、太助に求婚する!
二つ! 良晴は松平元康への援軍として、伊勢の滝川一益を動かすことに成功する!
そして三つ! 隠し湯で邂逅した太助に、信玄こと勝千代は、己の未来を尋ねるのであった!!
「……あたしの天命は、ここで尽きるのか? あたしのこれまでの武田信玄としての人生は、全て虚しい努力に過ぎなかったのか。あたしはこれだけ有利な状況にいるにもかかわらず、
上洛できると思えないのだ。敵であるうぬに答えを求めるのは筋違いかもしれないが……。頼む、あたしに真実を教えてくれ」
「……俺が知ってる歴史とこの世界の流れは、違ってきています。勝千代さんが知ったうえで行動すれば、知っても無意味になるかもしれませんよ」
「それでもいい。うぬが知ってる歴史を教えてくれればそれで良い。あたしの、天命を」
真摯な瞳だった。
言うべきか、黙っているべきか、太助はしばらくの間、逡巡した。
そして。
勝千代の信頼に応えようと決めた。
「俺から言えるのは……暗殺に注意すること。うちの姫様は、暗殺なんてせこい手は大嫌いですが、姫様の為なら手段を選ばない人がいますからね。
あとは、完全無欠の『英雄』になるのはやめろ、ということでしょうか」
「何? それはどういうことだ?」
「……俺の知っている武田信玄は、本当にすごい武将でした。その後を継いだ人間が劣等感を感じ、家臣たちが後継者に素直に従えなくなるほどに……。
そして跡継ぎはそんな家臣たちに自分を認めさせようと、いたずらに不必要な戦を繰り返し……国を弱らせ、家臣に見限られた。武田信玄が、偉大過ぎたから」
まあ、便利な英雄は、都合のいい神様で『生贄』だっていう、俺個人の考えですけどね……と太助は、彼に明かせる限りの真実を明かしてくれた。
「そうか……よくぞ教えてくれた、七梨太助」
勝千代は、ゆっくりと太助の傍から離れて行った。
彼女は、明かされた未来に衝撃を受けていた。
(武田家は滅ぶ。それも、あたしの死後も、皆が「武田信玄」を求めたせいで)
その、絶望の未来を知った時、勝千代の心の奥から山本勘助の囁きが聞こえてきた。
(七梨太助を捕らえてしまうのです! こやつが知る『未来』を全て聞き出し、その情報を活用すれば、姫様は天下人になれまする! 策とは、より多くの者の命を助ける賢者の知恵なのですぞ。それが王者の取るべき兵法でござる)
その囁きを、勝千代は聞き入れなかった。
敵である自分に、天命に打ち勝つ機会をくれた。
そんな太助に対して、裏切りを返したくは無かったのだ。
七梨太助と武田信玄が、山中の隠し湯で邂逅していたその頃――。
浜松城から二俣城へと駆け付けた僅かな後詰めの中に、一人の虚無僧が紛れていた。
杉谷善住坊。
織田信奈を二度までも狙撃し、相良良晴に重傷を負わせた甲賀の暗殺者だった。
彼は叡山から追い出された後、潜伏していたところを松永久秀に発見され、鋸引きの刑を受けるか、信玄暗殺の仕事を受けるかの二択を久秀から迫られ、迷うことなく後者を選んだのだ。
信奈の笑顔を見た瞬間に暗殺を躊躇い、二度までも仕事をしくじった。生ける屍となった自分が再生するには武田信玄を――織田信奈以上の大名を、暗殺するしかない。
暗殺者としてしか生きられないこの身は、武田信玄を暗殺した鉄砲の名手として名を残す以外の道は無い、と善住坊は信じていた。
そして、服部半蔵だけは、杉谷善住坊が松平軍に紛れ込んでいたことに気付いていた。
だが彼はそれを、自分の胸にしまい込み、元康に報告しないと決めた。
汚いやり口でも、成功すればよし、万が一失敗しても、杉谷善住坊は武田が殺してくれるからだ。
半蔵らしい冷酷な判断であった。
第二十六話「天命への挑戦と三方ヶ原の戦いと別れの兆し」
勝千代は、父・信虎に嫌われていた。
彼女の記憶にある父は、いつも自分を叱責するか、刀で切りかかっているかしていた。
親子が決定的に断絶したのは、信虎が勝千代に、死体を使った据え物斬りを無理矢理にやらせようとした時からだった。
(死んだ者にも、その者の人生があったはずだし、家族もいる。それを「据え物」扱いするなど、死者を冒涜する行為だ。あのような真似、あたしは嫌いだ)
勝千代は信虎を暴虐非道の人と思い、信虎は娘を臆病者と蔑み、廃嫡を考えるようになった。
勝千代と山本勘助が出会ったのは、まさに彼女が廃嫡される寸前という時だった。
そして今。
『武田信玄』は天下に最も近づき、同時に最大の恐怖と対峙していた。
これから全てが明らかになる。
自分は、父に臆病と罵られた『勝千代』のままであったのか――。
それとも、勘助が見出し、育ててくれた『武田信玄』になれたのか――。
あるいは――。
武田信玄は今、床几の上に腰を下ろしていた。
深夜。武田軍が二重三重に包囲している二俣城の堀の向こうから、涼やかで美しい笛の音が響いてくる。
影武者である双子の妹、哨搖軒を下げ、自ら諏訪法性の兜を被り、信玄は本陣にただ一人で座っていた。
迷宮のように入り組んだ陣を突破して、ここまで潜入するなど不可能だ。
だが、あの七梨太助はいかなる術を使ったのか、隠し湯に入り込んできた。
(暗殺に注意しろ)
太助の、あの言葉。
考えてみれば、ここまで徹底的に追い込まれた織田軍が武田の脅威から逃れるには、もはや自分を暗殺する以外に方法が無いではないか。
織田信奈だけは、『天下布武』への尋常ではない執念を持つあの者だけは徹底して叩かなければ決して退かない相手だ。そう信玄自身が警戒したからだ。
笛の音の狭間から『臆病者』と罵る父の歪んだ笑い声が聞こえてくるかのようだった。
(あたしは一度、父に叛いた。次は、我が天命に叛く)
恐怖を否定しようとするから、胸騒ぎがひどくなるのだ。
逃げるのではなく、直視するのだ。
迫りくる死を。
(恐怖を支配するのだ。さすればそれが勇気となる。『武田信玄』としてではなく、一人の人間としてそれをやれば。その時こそ初めて、あたしは真の強さを手にすることができる。
七梨太助が教えてくれたのだ。あたしもまた『武田信玄』に頼っていたのだと)
武田信玄の用心深さは、勝千代の恐怖心の表れ。
勝千代が家督の簒奪を後ろめたく思っていたから、武田信玄は勇猛果敢に戦う。
自分も甲斐を追われるのではないかと怯えていたから、家臣団を城に例えるほどの名将ぶりを見せる。
闇の中から、勝千代は感じた。
純粋かつ、圧倒的な殺意を。
(甲賀者か。すぐ近くまで、来ている)
この一瞬。
この一瞬で、決まる。
勘助が『孫子』を朗々と読み聞かせてくれるときの、あの独特のだみ声。
(動かざること、山の如く)
泰然自若と構え、死と、恐怖と向き合うのだ。
(静かなること、林の如く)
さすれば、心は乱れず穏やかなまま。
(疾きこと、風の如く)
音よりも早く。
放たれた鉛の弾を、彼女ははっきりと見た。
ガチイインッッ!!!
自分の胸めがけて直進してくる銃弾は、鉄製の軍配に阻まれた。
床几から無言で立ち上がり、天命に克ったと叫ぶよりも早く。
(侵略すること、火の如し)
大太刀を抜き放ち。
銃弾が飛んで来た方角へと、高々と飛んでいた。
着地した先には、虚無僧姿の男が一人、胡坐をかいて座っていた。
「――弾丸を見切るとはな。流石武田信玄。俺の負けのようだ」
この忍び、もうすでに死を覚悟しているらしい、と彼女は思った。
生き延びたのだ。という実感がこの時、初めて彼女の体を震わせていた。
もう、恐怖は無い。
あれほど自分を悩ませてきた父の幻影も、完全に消え去っていた。
自分は、この瞬間に新たな命を得たのだ。
天命を、『武田信玄』を乗り越えた、この瞬間に。
「よくぞ我が陣中深くまで忍び入り、あたしを狙撃した。名を聞いておいてやろう」
「――名を名乗る必要はねえ。俺は名も無き負け犬だ。さっさと殺ってくれ。戦国最強の化け物『武田信玄』に挑んだ身の程知らずとして消えるとするぜ」
「違うな。お前の言う『武田信玄』は一人の少女が己の弱さから逃げるために造った幻だ。その幻は七梨太助という少年があたしに天命を教えてくれるという力添えのおかげで、今宵この場で消え去った――武田信玄は、この時この瞬間に甲斐の民の中にある『日輪』になったのさ」
日輪。
その言葉を聞いた善住坊は、何かに思い当たったのか、引き攣った笑いを浮かべた。
やがてその笑い声は、涙交じりになっていった。
「……そうか、そういうことだったのか! 俺が織田信奈を撃てなかった理由がやっとわかったぜ! あいつは日輪だったんだ! 天下布武に執念を燃やして全力で生きているあいつは、俺のような日陰の暗殺者には眩し過ぎたんだ! なんてこった、どんな凄腕の撃ち手だろうと、日輪を撃つなんてできるはずがねえ!
ははははははは! ははは……」
善住坊は散々泣き喚き続けた。
そして落ち着きを取り戻した時には、もうあの人殺しを誇っていた頃の凶相は消えていた。
「最後に教えてくれ。武田信玄が消えたのなら、今のあんたは何という名なんだ?」
その問いに、彼女は考え込んだ。
確かに、信玄を乗り越えたのなら、新しい名が必要だ。
それも『日輪』に関係する意を含んでいた方がいい。
日輪――天――青空――晴天。
例え、風が吹いて、嵐が来て、空が暗闇に包まれてしまったとしても、その向こうに、晴天が広がると信じる者。
「武田――晴信だ」
「……そうか。殺れ」
晴信は、無言のまま。
善住坊の首筋へと、刀を振り下ろしていた。
十二月二十一日、明け方。
水の手を断たれた二俣城は、ついに開城した。
松平元康が玉砕覚悟で出した後詰めも、数に勝る武田軍に阻まれ、とうとう合流することが出来なかった。
これで遠江の大部分は武田に制されたことになる。
「昨夜、二俣城を囲む武田の陣中から鉄砲の音が聞こえました〜。何か事件があったようですが、武田信玄は元気満々、勇気百倍という感じで今朝から陣頭に立っています〜」
元康の脇に控えていた半蔵が、万が一の可能性に賭けて杉谷善住坊を見逃したことを報告。賭ける対象を誤りました。と頭を垂れた。
「ほら見ろ! やっぱり暗殺なんかで名将・武田信玄を散らせるのは間違ってるってこった!」
「勇ましいのよっしー。で、どうするのじゃ?」
「そ・れ・は……。籠城するとか、三河まで逃げるとか……正直松平軍が勝てる気がしねえ……」
傍らで味噌田楽をもぐもぐもぐもぐとひたすら頬張っていた騎士ジョバンナが、キリリと眉をつり上げて良晴を殴った。
「サガラヨシハル。戦いは弱気になった方が負けるものだ。戦う前から勝てる気がしないなどと口にしてはならない」
「す、すまねえ、って、いくら何でも喰い過ぎだぜジョバンナちゃん。太っても知らねえぞ」
「戦闘で体力を消費するから問題ない。戦が始まる前に腹を満たしておく。明日無き防衛戦に臨む騎士のたしなみだ。もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」
「うーん。どうでしょう、武田軍にジョバンナさんを送り込んで兵糧を喰い尽くしてもらうというのは」
「いやいや、いくらなんでもそれは……って太助ッ!? いつの間に!?」
なんと、本陣の隅にいつの間にか太助の姿がッ!?
「ついさっき、こっそりと」
「何でこっそり……?」
「それよりも太助さん〜。太助さんが知ってる未来では、この後どうなるのです〜?」
「ん〜。あまりばらすとそれはそれでまずいんですけどねぇ……彼我の戦力差を考えれば当然の結果が待ってます。察してください」
「わかりました。武田信玄に敗れるのが、私の天命ということですね」
元康は覚悟を決めて、床几から立ち上がった。
「武田信玄さんも、『暗殺者の凶弾に倒れる』はずだった本来の天命とは違う未来を、自らの手で手繰り寄せたんだと思います〜。私達だって、命を賭ければきっと、
自分の意志で自分の未来を切り開くことだってできる! サル晴さん達を見ていると、つくづくそう思うんです〜」
元康は正面からの決戦を決意した。
――が。
武田軍は浜松城を無視して三方ヶ原を西へと進んだ。
これに元康は「浜松城に隠れていることしかできない小者の狸娘と見下しますか〜!」と激怒した。
常日頃隠忍自重している分、キレると長い松平元康。
このまま武田の主力を無傷で美濃入りさせてしまえば織田は滅び、同盟を結んでいる松平家も滅ぶ。
今すぐ全軍で突撃し、三方ヶ原の大地を下り始めた武田軍の背後を突きます〜! と出撃した。
だが、元康の考えは甘すぎた。
武田軍は、松平軍が今まさに三方ヶ原の大地を上ろうとした瞬間に反転、数分足らずで「長蛇の陣」から「魚鱗の陣」へと移行し地の利を取った。
対する松平軍は各武将がめいめい好き勝手に進軍してきて、ほとんどまともに陣形も取れていない。
元康はせめてもの抵抗と「鶴翼の陣」を取ろうとするが、その時信玄が単騎で歩み出て元康に言葉をぶつけた。
「今のお前など、織田信奈の下手な模倣者に過ぎない。あたしが三方ヶ原を突っ切って三河へ入るだろうという希望的観測を、情報分析の結果と思い込んで全軍を死地に放り込んだ。
お前が狸と呼ばれているのは、今川義元に仕えていた時と同じ、強者にすり寄り阿諛追従で生き長らえて、巨大勢力に庇護された安寧な生き方と、大名として独立した誇り高い生き方を両立しようとする、中途半端な生き方をしているせいだ。己の志を持たぬ限り、あたしを倒すことは出来ん!」
屈辱と後悔、そして死の恐怖の前に正体を失った元康は采配を振り下ろしてしまい、武田騎馬隊の怒涛の突進の前に、松平軍は総崩れとなった。
元康は討死する気だったが、良晴と太助の必死の説得を受けて思い留まり、浜松城へ逃げ込み、信玄はこれで十分と考えたのか、美濃の山本勘助と合流すべく、兵を進めた。
この「三方ヶ原の戦い」において、松平元康が浜松城から打って出られぬほどの損害を受けたことが意味することに、良晴はまだ気づいていなかった。
十二月二十二日、夕刻。
武田信玄率いる二万五千の武田本隊は三河を横断し、尾張へ進撃。
信玄は軽装の騎馬隊のみを率いてさらに先行し、犬山城へと入った。
犬山城本丸の広間で信玄は山本勘助に出迎えられた。
「久しぶりだな勘助。そろそろ四郎が恋しくなってきたんじゃないか?」
信玄の自信と威厳に満ちた表情とその声に、山本勘助は隻眼を見開いた。
長年彼が思い描いてきた理想の名将・武田信玄が、そこに「生ける英雄」として鎮座していたのだ。
「御館様!? 勘助がいない間、御身にいったい何が!?」
「ふん。惚れ直したか?」
「あいや。某は、諏訪の巫女の血を引く勝頼様を一途に崇め奉る男。月の者が来る大人のおなごには全く興味がござらん」
「ハッ。相変わらず腐った台詞をお真面目に言う奴だ。それよりも聞け勘助。あたしはこの一線を最後に武田信玄を止め、晴信と名乗る」
「おっ、御館様、それはどういうことですかッ!?」
「聞け、勘助。あたしは――『天命を動かす者』に、会った」
「なんと!?」
「そして教えられたのだ。あたし亡き後、武田家は信玄を求めるあまりに滅ぶのだと。それを聞いた時、あたしは得心していた。――お前も、四郎があたしのように武田信玄をやれるとは思っていまい?」
「はっ。『武田信玄』はあくまでも御館様の性格を基本として練り上げたもの。勝頼様が演じることはできませぬ」
「そうだろう。それに『武田信玄』の強さは、あたしの弱さを裏返した強さだ。だがそれは、誰の胸にもある『強くありたい』という欲望こそが『武田信玄』だということでもある。
あたしは、甲斐の皆にそれを気付かせたい。そうすればあたしが死んでも、武田家は揺るがない。その為には、あたしが武田信玄を名乗っていてはだめなのだ」
そう語る信玄――否、晴信を見ているうちに、勘助は自然と畳の上に額を擦り付けて平伏していた。
隻眼から涙がこぼれていた。
「勘助。あたしは、お前の理想の武田信玄を捨てると言っているのに何故泣くのだ」
「嬉しいからでございます。御館様は某の思い描いた、古今の無双の名将を遥かに超えて大きくなられた。廃嫡を甘んじて受け入れようとしていた……
己の未来を諦めてしまわれていた御館様が、ここまで……ッ」
「……勘助。お前はあたしにとって師であり、もう一人の父だ。間違いなくな」
晴信は鼻を詰まらせたようなくぐもった声で語りかけた。
「おお……おおおお! この、狂人には、勿体無いお言葉にございまする……ッ」
「明日の一戦を武田信玄としての総仕上げの戦としたい。軍師・山本勘助よ。必勝の策を出せ!」
その言葉に、勘助が顔を上げた。
既に涙は乾き、冷徹非常な軍師の顔を取り戻している。
「『美濃の蝮』……いや『岐阜の蝮』を討ち取る必勝の策、当に某の頭の中にて完成しておりまする。名付けるならばそう、『啄木鳥の戦法・改』!」
同日、夜。
相良良晴と七梨太助、滝川一益、そしてジョバンナは早馬を飛ばして岐阜城に駆け込んだ。そして四人は山頂の草庵で道三と対面した……。
だが道三はあまりにも急激にやせ細っており、いつもの迫力も消えていた。
「遠江での出来事は全て知っておる。唯一の同盟国である三河の松平は脱落。信玄は電撃的な速度で犬山城に入り、この岐阜城を窺っておる。織田家は追い詰められたのう」
「武田信玄は上杉謙信を警戒して短期決戦を挑むだろうし、浅井朝倉連合との決戦も近い。……信奈さんがピンチだっていうのにやけに余裕ですね良晴さん」
「おう。そりゃあ信奈は勝つからさ! あ、ひょっとしてお前、まだ習ってないな〜? 今から起こる『姉川の戦い』ではな、徳川……じゃなかった松平軍がいい働きをするんだ。
そのおかげで信奈は逆転勝利できるって訳さ!」
「……良晴さん、あんた鬼ですか。その元康さんは武田にボコボコのギタギタにされて、浜松城で俎板の上の鯉になってるじゃないですか。
それとも、元康さんはもう十分生きただろうから潔く死んでもらおうってつもりですか?」
「は? いきなり何言ってるんだよ。俺が知ってる歴史では……って、ああああッ!? そうだったッ!! この世界と俺が知ってる歴史とは微妙に違ってるんだった!
ってことは、やべえ! やべえよッ!」
ぶーーーーッ!!
己の重大な錯誤に気付いた良晴は、思わず飲んでいたお茶を噴いた。
黙々とみたらし団子を食べ続けていたジョバンナの顔に向かって。
「……無礼者が……殺す」
「待て待て、落ち着け! つーか落ち着かせてくれ!!」
史上有名な「姉川の戦い」における織田家の勝因が無くなった。
元々楽天家の良晴は自信の根が崩されると弱い。
どうにか落ち着こうとお茶をすするが、その度に噴いてしまう。
もちろん、全部ジョバンナにかかっている。
「……熱い……汚い……穢らわしい……やっぱり殺す」
「まあ、良晴さんはさておくとして、どうします? 背中を宿敵に向けている武田は必ず短期決戦を挑んできます」
「うむ。一益殿、すまんがこの蝮につきおうてくれ。援軍は二千程かの」
「気は進まぬが、伊勢まで追い回されるよりましじゃな。姫の鉄砲の腕前、披露してやろうかの。くすくす」
「この蝮、頼りにしておるぞ。一益殿のおおらかさは十兵衛の生真面目さと良い勝負じゃな」
「それは姫を褒めておるのか?」
「もちろんじゃ。兵法では仕事も戦も七分の勝ちを持って理想とするからの。じゃが十兵衛は常に百の勝ちを求めておる。これは危険……こほ、こほ……」
「道三殿、大丈夫ですか?」
「あの子は儂の可愛い愛弟子じゃが、その生真面目さと、過信と紙一重の自信だけは心配なのじゃ。あれではいつ迷って道を踏み外すかわからぬ。
……じゃが今はそれどころではない。良晴殿、太助殿、心して儂の言葉を聞かれよ」
あまりの事に頭を抱えて狭い草庵の中をごろごろと這い回っていた良晴だったが、道三の真剣な声色に、姿勢を正して、彼の前に進み出た。
「こほ、こほ。儂は肺の病でな。曲直瀬ベルショールに診てもろうたところ、新年までもたぬという。……お主らに拾うてもろうた命もここまでじゃ」
良晴も一益も、言葉を失った。
確かに急に痩せてはいたが、まさか……!
「儂は一益殿とともに、必ずや武田信玄の侵攻を阻んで時を稼いでみせる。そなたらにはこれより姉川へと向かってもらいたい。
信奈殿はおそらく、儂からの援軍の催促を心待ちにしているはずじゃ。じゃが浅井朝倉はそのような意識で勝てる相手ではない。
儂を助けるつもりでいる限り、天下どころか己が命を取り落してしまうじゃろう」
「……爺さん。あんたを見捨てるなんてことが信奈にできると思ってんのか? あいつがどれだけ爺さんのことを想っているのか、わかってんだろ……?」
良晴は、泣きながら思い出していた。
遺言をしたためた『譲り状』を読み終えた後、今川を放置して道三を救いに行こうとした信奈を。
岐阜の城下町に、松明で描かれた蝮の絵を。
早くに父を亡くし、母に疎まれ、弟とは争い、その欲望を『夢』と解ってくれるものは誰もいなかった。
だからこそ、信奈は人一倍道三に頼っている。
そんな信奈の事だ。
どれだけ援軍無用と言われても、天下を掌中から取り落とすことになっても、問答無用で親子の縁を切ると言われても――。
「――わかっておるからこそじゃよ、良晴殿。あの子は儂の夢、儂の宝じゃ。親というものはのう、我が子を守る為ならだれもが大うつけになってしまうものなのじゃよ」
どうか、儂に代わって我が娘を護ってやってくれい。
その言葉に良晴は、うなずいた。
わかった、と言いたいのに、悲鳴のようなか細い声しか出せなかった。
太助は神妙な顔つきで瞑目し、一益は不自然なまでに顎をあげて夜空を見上げていた。
十二月二十三日、早朝。
二人が岐阜から不眠不休で馬を飛ばして近江・姉川南岸の信奈本陣に駆け込んだのは、日の出前の事だった。
ただし、良晴の馬の手綱を取ったのは、良晴本人ではなく、フロイスと合流するためにやってきたオルガンティノだったが。
姉川は北近江を流れる中規模程度の川で、浅井の本城・小谷城の南に位置している。
しかし浅井長政側には、朝倉義景がほぼ全軍を引き連れて加勢していた。浅井軍を率いる謎の『浅井長政』だけではなく、三方ヶ原での松平軍の完全敗北。
僅かな手勢で武田軍を迎撃しなければならない斎藤道三。
良晴抜きで数々のプレッシャーにさらされ続けた信奈の目は、真っ赤に充血していた。
「ずいぶん時間がかかったじゃないの、サル! いけしゃあしゃあとわたしのもとに戻ってきたということは左近(一益)を動かしたってことでいいのよね?」
「いけしゃあしゃあって、一応、療養って名目だったよな……? まあいいか。一益ちゃん自身は陸兵を率いて岐阜の道三に加勢中だ」
「ふうん。よく、あの扱いづらい子をそこまで働かせてるわね。また口八丁手八丁で左近を口説いたんじゃないの?」
「なんでそうなるんだよ? 俺はおっぱいは好きだが胸板には興奮しないんだ。一益ちゃんやねねの胸板をおっぱいと言ったら、おっぱいに失礼だろうが」
「ところで太助、サルの隣の河童は何? どこで捕獲してきたの?」
「河童じゃありません、宣教師のオルガンティノさんです。頭のこれは帽子。フロイスさんと合流したいというので良晴さんの足になってもらいました」
「人の話を聞けよッ!?」
「フロイスは京にいるわ。それより二人とも! まずはこちらの戦況を説明するわよ」
こくりとうなずいた犬千代が、すっ……と机の上に姉川の地図を広げた。
姉川北岸・東側に浅井軍一万五千、西側に朝倉義景が直接指揮をとる朝倉軍二万。対する信奈軍は約二万。十三段の深い陣を縦に敷いて長政の突撃を呼び込む構えであった。
なお朝倉義景は「この戦に完勝し、織田信奈を捕らえて一乗谷へ連れ帰る」と触れ回っているらしい……。
「畜生。その分、朝倉勢が多いんだな。お前が変質者好きのする中途半端な『顔だけ美少女』なのが原因だな、これは」
「「冗談は顔だけにして頂戴(するように)」」
でも信奈さん。と太助。
「縦に長くのばした陣で迎え撃つにはこちらの兵数が足りてません。いやそもそも、どうして兵数で負けているのに野戦に持ち込んだんですか?
ここは籠城して、雪を気にした朝倉が越前へ撤退するのを待った方が――」
「それでサル、岐阜の戦況は!? 蝮から何か言伝を持ってきたんじゃないの?」
「あ、ああ。持ってきたが……」
「岐阜へ援軍を割く準備はもうできているわ。あんたの軍団を岐阜戦線に投入すればだいぶましになるでしょ、半兵衛もいるしね、こっちはこっちで一丸となって何とかするから……」
信奈が瞳を輝かせながら喋るのを見ているうちに、良晴は確信した。
(言えねえ……。言えるわけがねえ……。蝮がいつ死んでもおかしくねえなんて……! 太助の進言を聞こうとしなかったことと言い、ただでさえ兵力が足りないのに、半兵衛ちゃんや金ヶ崎の殿をやり通した猛者どもを要する相良軍団を引き抜いて岐阜へ行かせるなんて自殺行為をやらかそうとしていることといい、間違いねえ。
信奈は蝮を心配し過ぎて、焦り過ぎていやがる。いや、ひょっとしたらその自覚さえないほど追いつめられているのかもしれねえ。
決戦を前にしてそんなことを言えば信奈は折れちまう。そうなったら信奈は義景の野郎に……!)
その有様を思い浮かべると無性に腹が立つ。
信奈を好きにされてたまるかと叫びだしたくなる。
我儘でケチで恩賞の約束を破るわ、好き放題振り回してくれるわの、全然どうでもいい女のはずなのに……。
「……良晴。顔色が真っ赤。大丈夫?」
犬千代が心配そうに、額から冷や汗を流し続ける良晴を窺ってきた。
「お、おう。伊勢から休まず大移動してきたからな。ちょっと疲れてるだけだ犬千代」
その時。
天地を揺るがす鬨の声が、姉川の大地を震撼させた。
背中に矢が刺さったまま物見の兵が本陣へ飛び込んできて、
「太陽が昇りはじめました! 日の光を見た浅井朝倉連合軍、一斉に姉川を渡って襲い掛かってきました!」
と息も絶え絶えに報告した。
――世に言う『姉川の戦い』が、ここに始まったのだ。
「ここが唯一の勝機! 姉川を生きて再び逆に渡ると思うなッ! 我等はこれより織田軍の本陣だけを目指す!」
浅井軍の陣頭に立って声を枯らすは『浅井長政』
父から家督を譲り受け、北近江浅井家の頭領として全軍を率いていた。
「長政。貴公存外に猪武者だな。倒れられて余が天下争いに関わる破目になるのは困るのだ。身を慎むがよい」
風流な公家姿のままで戦場に来ていた朝倉義景が馬を飛ばして長政の隣を並走する。
「義景。貴様は織田信奈を手にすることが出来ればそれで良いのかも知れぬが、我等はもはや、勝ち続けなければ未来は無いのだ。撤退などしてくれるなよ」
「それはせぬ。何せ織田信奈は現世が生んだ奇跡の芸術品だ。余が命を賭けるほど値打ちのある、な」
長政は付き合ってられぬとばかりに馬へ鞭を入れて、義景から遠ざかると……ワラった。
誰をも見ず、誰とも夢を共有できず、己の頭の中に思い描いた織田信奈の幻だけを追い求めている朝倉義景を「わけがわからない」とワラった。
(ま、織田信奈を追いこんでくれさえすれば何だっていいんだけどね。こっちもこっちで、浅井家の未来なんてどうだっていいんだし)
長政は――否、長政を名乗る何者かは、ただ一騎で血路を切り開き、屍山血河を築いていく。
やっとのことで前から三段目の相良軍団の陣に到着した良晴たちだったが、もうすでに『陣』ではなくなっていた。
長大であれど重厚ではない十三段の陣は東西からの挟み撃ちを受けて一気に崩壊。
この僅かな時間に九段目まで突破されてしまった。
もはや負けない為の手はただ一つ。
「主だった将を今すぐ本陣の信奈のもとへ集める」しかない。
「どうやって? 時間も無いし、別に合図を決めてるわけでもないんでしょうッ?」
「すみません良晴さん。私が軍師としてきちんと整備しておけば……くすん、くすん」
「いや半兵衛ちゃんのせいじゃねえ。信奈の頑固さと、身内が絡んだ時の不安定さを見誤っていた俺たち全員の責任だ」
「あの〜ジパングのニンジャには、空を飛ぶ術があると窺っていますが」
オルガンティノが恐る恐る良晴たちに声をかけた。――首だけ地面から生やした状態で。
「おわっ、何で首だけ生やしてるんだよッ? びっくりしたッ!?」
「相良氏の仰せのとおり、土の中へと匿ったでござる」
「これ、匿ってるのか……?」
「南蛮人は忍者を誤解せているでござる。鳥のように空を飛ぶ術などはないでごじゃるが、ちかち」
「こんな非常時でまでちゃんと喋ろうとしないでいいって! ちかち……もとい、しかしなんだよ、五右衛門」
「うにゅう。文字を書き込んだ凧を空に揚げるのはどうでござろう」
「それだ! で、凧はどこだ?」
「いつ何事にも対処できるよう、あらかじめ埋めておいてありゅでごじゃる」
そう言って、五右衛門は忍び凧を掘り出してきた。
「凧は敵軍の皆さんにも丸見えになってしまいます。暗号的な言葉を書かないと駄目です。あまり文字数が多いと読めなくなりますし……くすん」
「つまり即席の合言葉を考えなくては、と。うーむ……。ああッ! そうだ!」
太助が一瞬、黒い笑みを浮かべた……ように五右衛門には見えた。
「浅井朝倉には解らず、織田家臣団には確実に伝わる内容があった!」
「そうか! 流石は太助! 何を書くのかわからねーが、早速書いてくれ!」
「ただ、これは良晴さんにとってもリスクが大きくて……勝家さんあたりに殺されるかも……それでもいいですか?」
「今はそんなこと言ってる場合じゃねえ! このままじゃ信奈が危ねーんだ!」
「言いましたね!? じゃあ五右衛門さん、こう書いてください(ごにょごにょ)」
「ふむふむ……。えッ!? よいのでござるか?」
「いいのいいの。当人がそう言ってるんだからしょうがないでしょ♪」
「うにゅう。だんだん相良氏に容赦しなくなってきておりますな、七梨氏」
管理人感想
ダークレザードさんからいただきました!
太助の助言があったとはいえ暗殺を回避してさらなる進化(微違)を遂げた信玄改め晴信。
とりあえず踏み台にされた善住坊と晴信となった信玄の最初の餌食になった元康は泣いていいと思う(合掌)。
一方信奈はメンタル面の弱さが出て姉川にて大苦戦。
武将召集のメッセージ、太助はどういう『暗号』で……いや、良晴の不幸フラグが立ってる時点でだいたい想像はつきますけど(苦笑)。