織田信奈の欲望、前回の三つの出来事!

一つ! 勝千代は、杉谷善住坊の凶弾を跳ね返し、天命を超克する!
二つ! 道三は死にゆく身を押して、武田を食い止めることを決意する!
そして三つ! 道三の身を案じて焦る信奈は、あと一歩のところまで、浅井朝倉連合に追い詰められたッ!!


同日同刻。美濃国、濃尾平野。
武田信玄は全軍を出立させ、濃霧に紛れて木曽川を越えて岐阜城方面へと向かっていた。


「川中島の戦い」は数度行われているが、その中でも特に様々なエピソードを残したのが「第四回川中島」である。
この時は武田軍が海津城に、上杉軍が妻女山に籠ってにらみ合いが続き、武田軍は士気が少しづつ低下していった。
そこで謙信を野戦に引きずり出すために軍師・山本勘助は軍を二つに分けることを提案した。
濃霧の夜を狙い、信玄率いる本隊は静かに出撃して八幡原に待機。別働隊は迂回して妻女山を背後から奇襲し、上杉軍を八幡原へと追い立て、そのまま挟み撃ちにする――。
後世に名高い『啄木鳥の戦法』である。
だが、上杉謙信は軍鬼・山本勘助必殺の奇策を、「炊煙が多い」と「直感」で見抜き、一足早く妻女山を下山して、信玄本隊へと突進したのである。
奇襲に奇襲をぶつけられた本隊は、驚き、名だたる武将を次々と討ち取られ、一時は壊乱寸前に追いやられた。
必殺必勝の大戦略が逆に信玄を窮地に追いやってしまった――山本勘助は、その責任を取ろうとしたのか、信玄を守る為に自ら最前線へ特攻し討ち死にした――と世間では伝えられていた。
そして、白馬に跨った謙信は、なんと単騎で信玄の本陣へと突進。
総大将自らが総大将の首を取ろうとしたという。
宿命の強敵同士の一騎打ちは、武力・技量・勇気・精神力の全てが互角。
決着はつかなかった――。
妻女山から猛スピードで引き返してきた別働隊が上杉軍を背後から襲ったため、謙信は全軍に退却の下知を出さねばならなくなったからである。
この「第四回川中島」は全ての「川中島の戦い」の中で、最も激戦だったと後世に伝わっている――。


「勘助。今回は別働隊を繰り出さず、霧に紛れて全軍で正面の平野へと押し出す。一見、どうということのない策のようだが――」
「御意。だが斎藤道三は全身これ知恵の塊のような知謀深き老人。「川中島の戦い」の一部始終を頭に入れた斎藤道三は『この動きは、一度破れた啄木鳥の戦法を二度も使うまい、とみせるための罠。
 再び啄木鳥の戦法で仕掛けてくるつもり』と読んで自らも岐阜城から下りて参りましょう」
「しかし、かつて織田信奈の親父を迎え撃って奇襲で壊滅させた『加納口の戦い』のように、そこまで読んだうえで籠城してくるかもしれんぞ?」
「いいえ御館様。道三は決して籠城は致しませぬ。何故なら蝮は焦っているからでございます」

何故なら近江姉川で浅井朝倉と決戦を繰り広げている織田信奈は蝮の身を案じて焦っております、と静かに馬を進めながら勘助が呟いた。

「織田信奈は姉川での戦いを終えると直ちに岐阜へと引き返してきましょう。天下の八割を御館様に投げ渡すより、父の命を拾い上げることのほうが織田信奈にとってはずっと重いのでございまする。だからこそ、斎藤道三はその前に我が軍を退けようと出てきまする。それが父娘の情愛であるが故に」
「その情愛を策に利用するか。戦の鬼だな、お前は」
「甲斐を立つときに見た天文を覚えておいでですかな? 織田信奈と斎藤道三の宿星は共に輝けぬ。あの二人はどちらかがどちらかを諦めぬ限り、互いに滅ぶ他は無い。これが天命というものですな」
「天命――か」


姉川での激闘は続いていた。
本陣で犬千代と共に戦況を見守っていた信奈のもとには、絶望的な報告ばかり届いている。
この乱戦の最中、報告がどれほど正確かわからないが、信奈自身が己が目で見定めている戦場での有様は、「織田軍、総崩れ」の一言でしか表すことが出来なかった。

「浅井長政自らが先頭に立って、本陣へと一直線に切り込んでこようとしています。既に十一段まで突破され、残るは第十二段の陣と、この本陣のみ」
「デアルカ」

物見の兵は報告を終えると、そのまま死んだ。
背中に、無数の矢を受けていた。
このままでは、やられる。
もう散り散りになってしまった格将の部隊を本陣の周囲に集めて「方円の陣」に立て直すしかない。
だが、この乱戦の中では将達の居所を突き止めることも、伝令が無事に行き着く保障も無い。
信奈と犬千代は、どちらからともなく、思わず天を――冬の青空を見上げていた。
どこまでも広がる澄み切った青空に――、高々と、一枚の凧が舞い上がっていた。
雲一つない快晴の空に上がった凧に描かれた文字は、織田軍全員に、はっきりと読めた。


「おれは いまから のぶなの ちちを もむ わぁははははは 〜さる」


何も考えずに単騎突進して、数百名の浅井勢に取り囲まれて絶体絶命だった勝家は、真っ先にこの凧に気付き、そこに記された文字を読んで激怒した。
あまりの怒りぶりに、浅井勢がドン引きするほどだった。

「ささささささサル〜ッ! とうとう……とうとう本性を現したなあああああッッ!! 者ども、姫様の本陣へ急げえええ! サルの首を、落とせええええええッッッ!!!」


鉄砲隊を中心として懸命に小高い丘を守っていた光秀と、彼女に合流していた長秀も。

「信奈様をお守りしなければならないですッ! 全軍、信奈様の本陣へ走るです!」
「明智殿。これはもう一度全軍を集結させて陣を立て直す好機。八十五点です」


たっぷりと爆薬を積めた高価な茶器を惜しげもなく「冥土の土産」として振る舞っていた松永久秀も。

「半ば諦めていましたけど、織田家の天命はまだ尽きていないようですわ」

織田家の将兵が続々と、信奈の本陣に集ってきていた。


第二十七話「凧とホムンクルスと魂の叫び」


「さて良晴さん。頑張って生き延びてくださいね」
「くすんくすん。太助さん、なんて酷いことを……。これで良晴さんの女の子人気は完全に地に落ちてしまいました」
「俺は気にしてねえよ半兵衛ちゃん! 野郎どもからは人気急上昇だからな!」
「そうそう。元々人気なかったんだから気にすることじゃありませんよ」
「いや、お前は悪びれろよ」

かくして。
丘の上の信奈本陣へと、部隊ごとに四方八方でバラバラに戦っていた織田の将兵たちが、続々と馳せ参じた。

「見つけたぞ、サルぅうううう〜! 姫様の操は奪わせないッ! 死ねやああああ!」
「助太刀いたします柴田先輩ッ!」

到着してすぐに良晴は必死こいて逃げ回る破目になったが、それはどうでもいい。
何故なら、壊滅こそ免れたものの、十三段の陣のうち十一段まで破られており、残るは本陣を含めてあと二段だけだからだ。
しかもその十二段目を率いているのは、津田勘十郎信澄。
武勇においては良晴と並ぶヘッポコなので、一番安全な十二段目に配置されたのだが……。

「どういうわけか、第十二陣は浅井長政の突進を二度までも押し返しております。長政――もとい、猿夜叉丸殿の支えを加えたとしても信じられない粘り。
 満点――いいえ、百二十点です」
「偽長政をなんとしてでも自分の手で討つつもりなのか……お気楽野郎の癖に似合わないことしやがって!」

良晴は、馬を反転させて十二段目の陣へと走らせていた。

「半兵衛ちゃんは、俺の軍団を指揮して『方円の陣』を完成させてくれ!」
「りょ、了解ですッ」

駆けていく良晴の背後に、ペタリ、と五右衛門が張り付いてきた。

「随分馬の扱いに慣れたでござるな、相良氏」
「そっか? まあ、これだけこき使われてりゃあな」
「拙者の勘でござるが、偽の浅井長政は、おそらく人間では無いでござるにょ」
「……な……なんだって!?」
「先程、相良氏が石に躓いてこけて倒れた脇を、浅井長政が駆け抜けていったでごじゃるが、あしゃいながましゃからにゃんにんものけはいをきゃんじたでごじゃりゅ」
「ってことは……どういうこった?」
「あの夫婦の命がガチの大マジでやばいってこと! 俺は先に行きますよ!」
『HERO RIDE DECADE!』


「押し返してきたな、織田信奈。ここに来て『方円の陣』に素早く切り替えるとは」

午前中は浅井朝倉の一方的な勝ち戦だった。
戦場の最前衛に立った長政はついに信奈が準備した十三段の陣構えのうち実に十一段までを突破して、後一段で本陣というところへ迫っていた。
だが、この第十二段の陣が何故か抜けない。
およそ八百程度の、奇門遁甲の罠も、大量の鉄砲隊も、豪勇無双の武将もいない凡庸そのものの陣に、二度までも押し返された。
このままでは「方円の陣」を完成されてしまう。

「ここまでやるとはな、浅井長政。そなたを敵に回さなかった余は幸運であった」

ゆるゆると朝倉義景とその側近達が馬で接近してきた。

「旗印の動きを見るに、柴田勝家が北東、丹羽長秀が北西に新たな拠点を築きつつある。ここは迂回すべきだと思うが?」
「妙なことを。貴様は織田信奈を生かして捕らえたがっていたではないか」
「それには本陣に到達しなければならぬ。破れぬ陣を破ることに拘って機を逃すは愚かの極みであろう?」
「破れぬものか! 貴様は私が突破した後をのこのことついてくるがいいッ!」

浅井長政は、人馬一体となって下り坂を駆け下りた。

「者ども、続け! ここが最後の正念場だ!」

選りすぐりの浅井騎馬隊が、おおおお、と獣の咆哮をあげながら長政に続いた。
最弱の尾張兵とは思えぬ頑強な槍衾を飛び越え、陣へ突入した。
大将の傍に控えているはずの『奴』を殺すために。

「我こそは織田信奈が実弟、津田勘十郎信澄! 我が妻お市の名と姿を騙る不届き者よ、姉上のもとへは行かせないッ!!」
「名も知れぬ不届き者。義姉上の首を取るというのなら、この私を討ち取ってからにするがいい!」

白馬にまたがった武者姿の信澄と、足軽姿の猿夜叉丸が並び立つ。
それを見た『浅井長政』は馬から降りると、嗤った。

「や〜っぱりそこにいたか、長政ちゃん。ヘッポコな旦那さんを守ろうなんて実に甲斐甲斐しいねえ」
「黙れッ! それ以上お市の顔で、お市を貶めるような言葉を喋るなッ!」
「……まあ、個人的には、男装の麗人ってのも悪くなかったけどさぁ……」

そう言いながら偽長政の体つきが変わって――否、『作り変えられていく』
甲冑が丸ごと消え失せ、腹や太股など一部を露出したボディスーツに。顔も長政とは似ても似つかない少年の顔へと。

「やっぱりエンヴィー様は、この格好じゃないとね」
「そんなことができるなんて……やっぱり君も『びっぐでぃざすたあ』なのかい」
「大ッ正解! シンのクソッタレがぶっ倒れた以上、あちこちに兵隊をもぐりこませて少しづつデータを集めていくつもりだったんだけどさあ……。
 浅井長政。あんたがそうやってこの時点で織田に行っちまうのは完全に想定外だったのさ」

おかげでこうしてこのエンヴィー様が影武者なんて七面倒なことをやらなきゃいけなくなっちまった。とこぼすエンヴィー。

「ま、今のところ大丈夫なんだけど……、これ以上はどうなるかわからないからさぁ……、死んでくんない?」
「さささささせるものかぁ〜!」

蒼白な表情で信澄がエンヴィーに斬りかかる――。
が、逆に乗っていた馬の前足を殴りつけられて、大地に転がり落ちる。

「そんなへっぴり腰でどうしようっていうのさ。すぐにすむからおとなしく――」

エンヴィーは最後まで言えなかった。
信澄に注意を向けた隙に、猿夜叉丸がその首を刎ねたからだ。

「油断のしすぎだ! 愚か者、め……ッ!?」

猿夜叉丸の顔は引き攣った。
ありえない、ありえるはずがない。『首を刎ねられてなお動く』など、そんな生き物がいるはずが……ッ!
動揺する猿夜叉丸の目の前で、頭蓋骨が、肉が、眼球が次々と再生していく。
ほんのわずかな時間で、エンヴィーの頭部は完全に元通りになった。

「残念だけど、一回死んだぐらいでくたばるようなエンヴィー様じゃないんだよ」

呆然とする猿夜叉丸の首を締め上げるエンヴィー。

「く……はっ……化け……物め……ッ……!」
「またまた正か〜い。心配することないさ、役立たずの駄目親父もすぐにそっちへ送ってやるからさぁ。……ん?」

ドスッ。
エンヴィーが自分の体を見下ろすと、しがみついた信澄が、腰の所に太刀を突き立てていた。

「殺させるものかあ! 僕は、お市の夫なんだ! いつもへらへら笑うばかりで、姉上やサル君達に寄りかかるばかりの僕を信じてくれたんだぞ! だから、だから……!」

絶対に、護るんだああ! と信澄は告げようとしたようだった。
だが、エンヴィーに蹴り飛ばされて、再びその華奢な身体を大地に打ち付けられた。

「クソ人間が……。うぜえんだよ! クソくだらねえ、青臭い感情を振りかざしやがって……! てめえの女はなあ、ただ中途半端なだけなんだよ!
 自分じゃ何も選べねえ、ただ引きずられて流されて生きてきたクソ女だ! 命を張って守る価値なんざねえんだよッ! おい、聞いてんのかぁ!?」

よっぽど癇に障ったのか、エンヴィーは倒れた信澄を、何度も何度も何度も蹴りつけた。
お市が泣き叫んでも、信澄がピクリとも動かなくなってもなお。

「……チッ、死んだかぁ? まあいいや、すぐにこっちも逝かせてやるからよ」
「ぐッ……かハッ……」

再び猿夜叉丸の首を絞める手に力を入れ始める。
薄れていく意識の中で猿夜叉丸は、血塗れで倒れる信澄を見た。

「……勘十郎」

この一見ひ弱そうな男が、自分の為に、なけなしの勇気を振り絞って、化け物と戦ってくれた。それだけで自分は間違えなかったと誇ることが出来た。
そして、猿夜叉丸が意識を手放そうとした瞬間。

「イ……ギャアアアアアッッ!!」

エンヴィーの叫び声と、自分の体が地面に落ちるのは同時だった。

「ゲホッ! ゴホッ! ゴホッ!」
「信澄ぃぃぃぃ! 生きてるかぁぁぁぁ!?」

五右衛門の太助で煙幕を張りながら信澄のもとへと駆け付けた相良良晴。エンヴィーの腕を切り落として猿夜叉丸を間一髪で救ったディケイド。

「信澄さん……頑張ったんですね」
「ディケイド……てめえ……ッ!?」

腕を再生したエンヴィーは怒りの言葉を吐くことが出来なかった。
感じ取ったのだ。
ディケイドの全身からとてつもない怒気が放たれているのを。
この間に良晴と五右衛門は、虫の息の信澄を背負った猿夜叉丸と共にその場を離れた。

「お前たちビッグディザスターの目的とか、今はどうでもいい。俺のダチをあそこまで傷めつけやがって……! エンヴィー、死ぬ準備は出来ているんだろうなぁ!!」


「……サル君。来てくれたのかい?」
「喋ってはいけません、勘十郎。伝えるべきことは私が代わりに!」

自らが背負った信澄の代わりに、猿夜叉丸は良晴に信奈の身が危ないことを語った。

「大がかりな『方円の陣』を作る為に本陣を再び手薄にしているのでしょう、相良殿。私の命を奪おうとしたエンヴィーとは違い、朝倉義景は義姉上を狙って乱破と共に本陣へと潜入しているかもしれません」
「(しまった……! 半兵衛ちゃんは俺の軍団を率いて持ち場についているし、犬千代も小姓隊を率いて出払ってしまっているかも!?)五右衛門、信澄を絶対に死なせるなよッ!」

怒鳴りながら、良晴は馬を反転させて再び本陣へと走った。
一人じゃ危ないでござるよ! という五右衛門の声も耳を素通りしていた。
太助から聞いていた、朝倉義景が信奈に異様な執念を向けていたという事実に身震いしていた。
まともな感性の持ち主は、生身の人間を着せ替え人形にするだの、年下の他人に母性を求めるだのは口にしない。

(冗談じゃねえ。冗談じゃねえ。俺だって信奈の唇にキスしたことさえねえんだぞ……! あいつはそれほどに、大切な。俺にとって、かけがえのない存在なんだ。
 火事場泥棒みてえな危険人物なんかに……!)

この時、良晴は勝家とすれ違った気がしたが、よく覚えていない。
何故なら、勝家の隣に犬千代が無言で立っているのを見た瞬間に、良晴の全身が沸騰していたからだ。

(その時に俺が止められる保証なんて無いんだ)

頼む、間に合ってくれ!!


戦局は、めまぐるしく動き続けていた。
太助が良晴に泥をかぶせて失礼千万な犯行予告を書き記した「凧」を戦場の空に挙げたことで、壊乱寸前だった織田軍は信奈本陣の周囲に集結し、「方円の陣」を敷き始めていた。
犬千代と小姓部隊にも、「方円の陣」に参加するように命じ、信奈は本陣に一人きりになっていた。
いかに強気な信奈といえど、広い陣幕の中で独りぼっちで座っていると、心細さを感じずにはいられなかった。

(そういえば、以前にも似たようなことがあったような気がするわ)

あれは、龍神が出るという池に行った折に今川義元の部隊に急襲されて、陣幕の中にまで敵兵の侵入を許して――。
ゆらり。
背後に、人が入ってきた気配がした。

「犬千代なの?」

振り返ろうとして、感じた。
違う。この禍々しい『気』は、犬千代じゃ――!

「朝倉義景、参上いたした。かねてより申し上げていた通り、貴方を越前一乗谷の我が邸宅へお連れ申し上げる」
「〜〜〜!?」

後ろから伸びてきた男の手に、口と、太刀を抜こうとした腕を押さえられた。
朝倉義景は、織田軍の足軽に変装して、混乱する本陣へと乗り込んできたのだ。
その腰には見知らぬ武将の首が一つ、ぶら下がっている。

「この首だけの男は余の部下である。大手柄を立てた者は、身分を問わずに大将に直接声をかけてもらえる。やんごとなき姫の身でありながら何と尻軽ではしたない――こんな悪習を是とする者には、お仕置きが必要だな」
「!?」

今、なんと言った?
その首は、誰の、だと?

(まさか。まさか、大将自らが、自分の家老の首を落として!? 狂ってる! しかもここまで乗り込んできて私を殺そうとしないなんて!? 離して、離してよ!)

激しく抵抗しているうちに、殴られ、引っ叩かれ、ついに信奈は芝の上に押し倒されてしまった。
血塗れの朝倉義景が、信奈の細い身体の上へと圧し掛かってきた。
義景の目は血走ってギラギラと輝いていたが、信奈どころか何も見ていない。
この戦の帰趨など興味は無かった。
信奈を我が物にするためならどれだけ死人が出ようともかまわない。
そのような目だった。

「……う……う、あ……あ……」

信奈は義景に恐怖した。
あまりにも異様な状況に心がついていくことが出来ず、全身が脱力していくのがわかった。

「このまま攫っていくべきところだが、もはや我慢できぬ。今この場でそなたを我が物にしてしまうとしよう――余が何を言っているか解るだろう?」
「!……い……い、いや……いや……!」
「光栄に思え。絵物語以外の女人に余が心惹かれたのは、そなたが初めてだ。互いに異性を知らぬ者同士、戦陣の中で密事に耽る。真に風流な出会いではないか」

義景の唇が、舌が、信奈の白い頬の上を這おうと急接近してくる。

(いや……!)

助けて。
助けて……!
私を守って。
ここに、来て――!

「……サル……! 良晴!」


「テンッメエエエエエエエエエッッ!!!」


間に合った。
信奈の唇を奪おうとする朝倉義景を見た瞬間。
良晴は理性を投げ捨てた。
これほど本気で誰かを憎悪するのも、怒るのも生まれて初めてだった。
激情に任せて、義景の腹を渾身の力で蹴り上げ、信奈から引きはがし、ただひたすらに殴り続けた。
しかし、義景も戦国大名としての鍛練は積んでいる大柄な男。
たかが高校生のパンチ数発では、まるでひるまず、組み合いながら殴り返してきた。
強烈な一撃を顎に喰らい、ぐらついたが、良晴は踏みとどまる。
痛がっている間など、無い!
この男だけは――!

「おおおおおあああああ〜!!」

喚きながら、義景の腹に頭からタックルしていた。

「飼いザル風情が。それほどまで主人が大事か。哀れなサルめ」

胴に組み付いた良晴は押し潰されそうになったが歯を食いしばり、頭を突き上げて、朝倉義景の顎に強烈な頭突きをかます。
呻く義景をそのまま背負い投げ、子供のように出鱈目に殴りかかり、そして、姉川の戦場に響き渡るような大声で咆哮していた。


「この、クソ野郎おおおおおッ!! 俺の女に、何しようとしやがったあああああッッ!!!!」


その魂の叫びに誰よりも過剰反応したのは、端正な顔を血塗れにされて「この下郎めえええ!」と怒鳴り返している義景ではなく、

「ちょ、ななな何を言い出すのよ、サルッ!?」

やっと体の自由を取り戻して起き上がろうとしていた信奈だった。

「ば、ばば馬鹿を通り越して、ああああああんたってああああああ頭がここここ壊れてるんじゃないのッ!? だ、だだ、だ、だだだ誰があああああああんたの女なのよッ!?
 あんたのきったないだみ声が、気持ち悪い一言が、忘れようとしても全然消えてくれないじゃないッ!」
「うるせえッ! 好きな女に好きだと告白するなんて、当たり前の事じゃねえかッ! お前にどう思われようと関係ねえッ!
 俺はお前が、どうしようもなく好きなんだよおおおおッ!!」
「ッ!?!?」

本心だった。
朝倉義景が信奈を穢そうとしたその光景を見た瞬間に、心が、感情が、魂が思い知らされた。
相良良晴にとっての『天下一の美女』とは、織田信奈――吉に他ならない。
身分違いとか、性格が欠点だらけとか、そんなの関係ない。
そんなの、朝倉義景みたいな一人で勝手に盛り上がっている変態野郎なんぞにこいつを奪われるのに比べたらどうだっていい。
良晴は、いつの間にか信奈の肩を強く掴んでいた。

「かかか肩掴まないでよ。いいい痛いじゃない」
「――キスさせろ、信奈」
「鱚?」
「接吻の事だ。今お前を助けた恩賞としてさせろ」
「……!? ああああんた、ここここここは戦場なのよッ!?」
「時間がもったいねえ。一回だけでいいから……」
「ちょ、ははは、話、を……」

良晴が、震えながら信奈の唇に、自分の唇を近付けていく。

(どどどどうしてかしら。ちっとも恐くないわ。むむむむしろ……)

信奈がそっと目を閉じた時だった。
ズドガアアアアンッ!!!!
十一段目の陣の方角から、凄まじい爆発音がした。

「な、何なのッ!?」
「ありゃ多分太助の奴だ。って、しまった! 朝倉義景の奴、逃げちまってるし!」

キレた良晴が勢いのままに告白して、そのままキスをしようとしている隙に、完全に存在を無視されてしまった朝倉義景は腫れ上がった血塗れの顔を隠していずこかへと逃走してしまったらしい。
そして、水を差されてしまった良晴は、猛烈な羞恥心に襲われていた。

(ななな何であんな言葉を叫んでしまったんだ、俺はあああッ!? 彼女いない歴=年齢なこの俺が、あんな恥ずかしい台詞を……穴があったら入りてえええええッ!!)
「サルうううぅうう〜! よくも、よぉぉくも! あたしの姫様を「俺の女」呼ばわりしたなああああ〜! この下品・下劣・下剋上の三拍子そろったお下道ザル!
 もはや生かして「勝家、俺を殴ってくれ!」おかな、ってはい?」
「頼む勝家! このままじゃ俺は信奈と顔を合わせられねえ! 殴って記憶を消してくれええ〜!!」

何故か涙目になって本陣へ突進してきた勝家に、こんな頼みをしてしまう程だった。

「ちょっとサル、それどういう意味よ! 今更わわわ忘れたいなんて、おおお乙女の心を何だと思ってるのよ!!」
「おおおお前こそ雰囲気もへったくれもない、あんな恥ずかしい告白をしちまった、おおお俺の気持ちを何だと思ってるんだよ!」
「ああああたしにどう思われようと関係ないんじゃなかったの!?」
「お、男はなあ! 好きな女の前ではかっこつけていたいんだよ!」
「うわっ、サルのくせに生意気〜!」
「あ、あの〜姫様。浅井朝倉が撤退を始めたので……サルとの痴話喧嘩はほどほどにして下知を……」
「「痴話喧嘩じゃないッ!! って、えッ!?」」

そこへ。
続々と織田家の家臣たちが詰めかけてきた。

「くすんくすん。この半兵衛としたことが、信奈様を一人にしてしまったのは一生の不覚でした。朝倉義景さんは逃げてしまいましたが――」
「『方円の陣』を組んで守備を固めたのが功を奏しました。七梨殿との一騎打ちに敗れた浅井長政が退却し、朝倉義景も部隊の指揮を放り出していずこかへと逃げ去ってしまい、
 ただ今浅井勢・朝倉勢は共に総崩れ。お味方、九十九点です」
「うふっ。信奈様? 今が小谷城の浅井家を滅ぼす好機ですわ。いえ、越前一乗谷まで燃やし尽くすことも可能かもしれません。総攻めのお下知を」
「小谷城攻めの先陣はなにとぞこの十兵衛光秀に! あのお城を旦那様への引き出物にしたく存じます、です!」
「ここで浅井朝倉に完全な止めを刺して、北近江と越前を平定してしまえば、武田信玄に岐阜城を奪われても取り返すチャンスをつかむことができる。どうする、信奈さん」


太助の試すような一言と。
全身に包帯を巻き、無言で隅に正座している傷だらけの信澄の傍に付き添った猿夜叉丸の姿とが。
信奈に、「追撃」という命令を出すことを躊躇させたらしい。
何より、戦いの舞台はこの姉川だけではない。

「…………サル」

信奈は、良晴をその燃えるような大きな瞳で睨みつけながら、命じた。

「聞きそびれてたけど、蝮の言伝って何? なんで目ぇそらして口笛吹いてんのよ? 私には聞かせらんないって訳!?」
「あ、ああそうだ」
「……教えないなら一生恨むわよ」
「覚悟の上だ」
「……サル。私の未来を選ぶのは、私自身の意志よ。前にも言ったでしょう。だから、お願い。教えて頂戴」

信奈は、今にも泣きだしそうだった。




管理人感想

 ダークレザードさんからいただきました!

 エンヴィー来たぁぁぁぁぁっ!
 ガンガン系クロスで偽者登場とくればコイツだろうと思ったけどやっぱりだった! 大好きなキャラだけにうれしい限り!
 けどコイツ以上の外道がいるせいでかすんじゃってるぞ! おのれ朝倉義景ぇっ!

 そんな外道に触発されて、良晴ついに信奈に告白。
 勢いだけならかの“世界三大恥ずかしい告白”にも負けてないですな。そりゃ我に返った後悶絶もするわ(ニヤニヤ