織田信奈の欲望、前回の三つの出来事!
一つ! 太助は、良晴をセクハラ犯に仕立て上げることで、織田軍の崩壊を防いだ!
二つ! 信奈が朝倉義景に穢されかけるのを間一髪救った良晴は、ついに信奈への思いを認めた!
そして三つ! 再び、天下か義父の命かの決断を迫られた信奈は、良晴に真実を求めた!
「……サル。私の未来を選ぶのは、私自身の意志よ。前にも言ったでしょう。だから、お願い。教えて頂戴」
信奈は、今にも泣きだしそうだった。
困ったり苦しんでたり、泣いたりしている人間を見過ごせないのが相良良晴である。
悪い、爺さん。俺、どうしても信奈に嘘、つけねえや。
良晴は、「お前が選ぶんだ」と前置きをして、そして、打ち明けた。
斎藤道三が肺の病で、年が明けるまで持たないだろうということ。
その為に、援軍は無用。出せば親子の縁を切るとまで言っていたこと。
自分の為に判断を誤り、戦を――人死にを増やし、天下統一を遅らせてしまうことを危惧しているのだと。
「信奈。これだけは、言っておくぜ。岐阜へ行けば、天下布武の夢は途方もなく遠ざかる。ここで浅井朝倉を見逃せば、今まで戦っていない強敵たちもきっと蜂起する」
そして戦が、人死にが増え、お前の心も傷だらけになる――。
「デ、アルカ」
涙の粒が、ぽろぽろ、と信奈の黒い瞳から零れ落ち続けていた。
まるで『長良川の戦い』の直前の軍議が再現されたかのようだった。
違うのは、道三が正真正銘、明日をも知れぬ身であること。そして、義父か天下かを、信奈が自分の意志で選択しなければならないということであった。
(五右衛門の言った通りになっちまった。全部の実を落とさずに拾うことは、究極的には出来ないってことか……いや、でも。もしかすれば、まだ、方法は。
例え遠回りになっても蝮を助けて天下もとる方法が――)
策が出てこない。
困り果てた良晴が太助を見るが、太助はただじっと信奈を見ていた。
残された時間を義娘の為の戦いに使っている道三か、義妹が父と和解できる可能性か。
惑い、煩悶し、苦しげに呻きながらも信奈が答えを出そうとしている様を心に焼き付けるように。
そして、信奈は、甲高い声で叫んでいた。
「――全軍、岐阜へ! 今より蝮に加勢するわ!」
衝動ではなく。
考えて考えて、その末に「理屈」ではなく「気持ち」を選んだ。
姫! と家臣団から悲鳴にも似た叫び声が上がる中、あの温厚な丹羽長秀が、鬼の形相で主君に食って掛かった。
「姫は天下を捨てられるのか! この姉川で兵達が戦い、血を流し、一つしかない命を捨てたのは、何の為、誰の為と思いか! 彼等にも親や兄弟はいるのです!
心を残しながらも、姫と共に見てきた天下布武の夢の為に死んだのです! それを、姫は――貴方は――御自分の」
その先は、こみ上げてくる嗚咽が邪魔をして、いえなかった。
言ってはならない、言えるはずがない。
それは、人の心を捨てよ、『吉』を永久に殺せと命じるも同然なのだから。
「……御免なさい」
信奈はそう呟くと、南蛮帽を深々と被って顔を隠し、一騎で美濃への道を駆け始めた。
「相良殿。今の姫は、貴方しか止められない。貴方なら」
だが良晴も、信奈を止めるつもりは無かった。
「俺達は黙ってあいつについていくだけだ。たしかに信奈は天下を掌中から取り落とした。だが、まだ拾えねえわけじゃねえ。
俺達家臣が今までの十倍働いて取り戻せばいい。今はそんな事よりも――」
「――姫を、人間の心を持たない魔王にしてしまってはいけない。そう仰りたいのですね、相良殿。分かります。分かりますが――」
「あれが、『織田信奈』という戦国姫大名だ。だから、俺も良晴さんも長秀さんも、信じて仕えている。違いますか?」
「七梨殿――。そう、ですね。姫様がご自分で決められたのですから……。あれが姫様の本当の願い、なのでしょうね」
姉川の戦いは、浅井長政の退却と朝倉義景の戦線離脱により、織田軍の逆転勝利で終わった。
しかし、織田軍は岐阜への援軍を優先し、追撃を行わなかった。
敵味方共に多くの血が流れたが、決着はつかなかった。
十二月二十三日、夕刻。
信奈は自らの唇を噛み破りながら、岐阜へ出立した。
同じころ、『岐阜の戦い』もクライマックスを迎えていた。
開戦当初、道三は黄金甲冑に身を包み、黒馬に跨ったジョバンナを前線に押し出して、南蛮人をほとんど見たことが無い武田勢の士気をくじき、鉄砲の轟音で馬を怯えさせるという手を取った。
どうでもいいが、武田軍にどこぞの黙示録マニアの中二病姫武将がいたら嬉々としてジョバンナと戦おうとしただろう。
道三自身も病身を推して自ら餌になるべく出陣していた。
だが。
そんな道三を、死にかけていることすら忘れさせるほどの衝撃と絶望が襲った。
岐阜城に『土岐家』の旗が翻ったのだ。
そう。
山本勘助が啄木鳥として使ったのは、信奈に敗れ、岐阜から放逐されたまま行方をくらましていた斎藤義龍だったのだ。
『啄木鳥の戦法・改』は、成った。
道三も、「我が命運ここに尽きたり」と呆然とし、その場に血を吐いて倒れた。
その時、その戦場にいた全ての人々が、決着がついたと確信した。
故に、誰も想像していなかった。
岐阜城の山頂より、義龍が――。
「親父殿を――お救いせよ!」
『武田勢をめがけて』死兵と化して攻め寄せるなどと。
だが、これだけでは終わらなかった。
浜松城から動けぬほどに打ちのめされたはずの松平元康が、信玄を超えたい、その一心で遠江も三河も捨ててまっしぐらに信玄の陣へと向かってきていた。
そして、駄目押しに。
「織田信奈とは面識も貸し借りも無いが、孤立無援となってなお戦い続ける織田家をこのまま見捨てては義に反する」と、上杉謙信が川中島へと進軍を開始した。
「全ては某の過ちにござりまする。甲斐で育てた武田の良馬を義龍に与えたばかりに、武田の騎馬隊同士がぶつかり合うという悪夢の如き事態となりました。
小勢とは言え死兵と化した松平に背後を突かれる始末。その上謙信までもが。全て、某の罪にござる。川中島に続いて、またしても」
「もう良い、勘助。お前の策に欠陥はない。人の心は、当人自身にもその全てを読みきれるものではない。あの時、川中島で謙信に『啄木鳥の戦法』を見破られた時に
それに気づかなかったあたしが甘かったのだ」
「他の策を用いようと思えば、幾つもございました。しかし、川中島で晒した生き恥を雪ごうと、御館様の名声を損ねた罪を償おうと。某のその拘泥が、再びこのような結果を……」
「勘助。あの時とは違う。兵力ではこちらが上なのだ。今一度、戦局を立て直せ。くれぐれも死んで責任を取ろうとするな」
瀬田に旗を立てるまでは、死ぬな。この戦に勝てば、あたしとお前の夢がかなうのだ。
その言葉に、平伏していた勘助は顔を上げた。
微風が、晴信の長い髪を靡かせていた。
自分を「もう一人の父」とまで呼んでくれたこの御方を、ここで死なせるわけにはいかぬ、と思った。
そして、もう一つ、気付いたことがあった。
(あの時とは違う……。御館様が仰られた通り、今のこの戦況はあの時の川中島によく似ている。そして道三が追いつめられた「長良川の戦い」とも。
某があの時、斬り死にしようと敵中に単騎で突撃しながら、命を長らえたのは、まさか――)
まさか、自分が川中島で死ねなかったのは。
本来は義龍によって消されるはずだった斎藤道三の星を、義龍に代わって消すためだったのではないのか。
その為に天は、某の天命を操ったのでは――。
ならば、御館様は天命を乗り越えたのではなく――。
晴信が「どうした」といいたげに眉を顰めた。
言えぬ。
これだけは、面と向かっては言えぬ。
「――御館様、某に最後の策がございます。お身体を労れます様。御館様は幼き頃からお風邪を引きやすい。風邪は万病の元と申します。
――そして、どうか、武田晴信として甲斐の皆と共に生きてくだされ。これにて、御免」
勘助は、杖を突きながらかろうじて立ちあがった。
晴信は――。
無言だった。
既に勘助は言葉では止まらぬだろう。
ならば、そなたがやると決めたことを、やりたいようにやってこい、勘助。
そう、示したかったのかもしれなかった。
勘助は馬を飛ばした。
馬に乗った真田忍軍の忍びたちが、一人、また一人と勘助の後を追いかけてくる。
「道三は選りすぐりの刺客を散らし、虎視眈々と御館様の首を狙っております」
「武田四天王率いる騎馬隊が立ち往生し、織田信奈も全軍でこちらに向かっております」
「松平隊も背後から迫っている今、御館様をお守りせねばならぬのではありませぬか、軍師殿」
「いいや、違う。それは四天王と真田に任せればよい。この重大事だからこそ、軍師には軍師の任務がある」
「して、その任務とは」
「某亡き後も永久に御館様の尻を叩き続ける為の下準備よ。お前達は、某を道三のもとまで駆けさせればそれで良い」
(確かめねばならぬ。人の意志は己が天命を先送りにすることしかできぬのか――、一人の意志のみで、二度、三度とそれが果たせるのか――我が命で直接!)
川中島で某はどのような死を迎えるはずだったのか。
こうしてただ一念を果たさんと敵陣に突進することでいずれ答えは出よう。
そして、某と道三の相打ちという、某の望む結末になれば。
御館様は、心の底から織田を憎み、織田信奈も武田家への恨みに囚われて、天下盗りの戦略眼を曇らせるであろう。
「ふ、ふ、ふ……これはもはや軍師の策ではないな」
真田忍軍は次々と自らの命を捨て石として、勘助の命令を遂行した。
ジョバンナをも振り切り、ついに勘助は道三の陣へと達した。
見えた。
床几の上に腰かけた、斎藤道三。
その隣で、滝川一益が種子島を構えて勘助を待ち受けていた。
だが道三は、軍配で一益を制止した。
「その異相、武田方の軍師・山本勘助殿とお見受けいたす。何をしに参ったのかな」
声に、力が無い。
水も滴る色男とも蝮とも言われた男は、悲しいほどに老いていた。
槍を取った手も、重みに耐えかねて痙攣している。
「我が策、成れり――! 道三入道、我が命を持ってゆけ!」
馬から飛び降りようとした、その刹那。
勘助の視界がいきなり漆黒の闇に覆われた。
一益は種子島を既におろしている。
撃たれたのでは、無い。
「……ぬ……お、お、あ、頭が……こ、これは……!?」
現代医学で言うところの、脳溢血の症状だった。
落馬した。
某は間もなく死ぬ、と勘助は思った。
「に、二度目は無い……と、申すのか……て、てんよ……こ、これが、これが、わ、わが、て、てんめいと……!」
某は、あの時の川中島で無駄死にする運命であったとは……。
けほ、けほ、と苦しげに咳き込む声が聞こえた。
道三が吐血しているのだと勘助は気付いた。
「儂は油売りになる前は、寺で、坊主をやっていた。もはや槍も振り上げられぬ身体じゃが、経文を唱えて汝を送り出すことくらいは出来よう」
そこまで荒い息をしながら喋り終えた道三もまた、勘助の隣に倒れ伏していた。
「お爺ちゃん。もう無理をしてはならぬのじゃ。信奈ちゃんが着く前に死んでしまうではないか」
一益のその言葉に勘助は、道三が死病に冒されていると気付いた。
やはり。
やはり、天は某と蝮の死すべき状況を再現していたのか。
「自らの命を用いた最後の策が実らず残念じゃったのう、山本勘助よ。しかし、軍師の道とは修羅の道よ。下剋上の道を歩んだ儂と同じく、志半ばで倒れるが当然の道よ」
「み、やぶ、られていた、かッ」
舌がもつれて、ろれつが回らなかった。
「じゃが、お互いこれでよいのじゃ。死にゆく男子たるものが未来ある若きおなごの心に怨念を遺していくのは間違っておる。たとえ老いさらばえようとも、最後くらいは
笑顔で逝くべきである。遺された者達の為にな。真田衆よ、息があるうちに勘助殿を信玄の本陣へ返してやれ」
なおも真田衆に道三の首を取るよう命じようとした鬼の勘助は、しかし、その命令を口にすることは無かった。
勘助の額から、とても暖かい何かが、勘助の心に、魂に送られてきたのだ。
恐怖も、鬼の執念も嘘のように消え、その代わりに、勝千代と初めて出会った時の記憶が甦ってきた。
あのころの勘助は、その醜い面相と大口故に、どこの大名家にも取り立ててもらえず、片足を痛めて槍働き出来ず、素浪人の身だった。
天下を盗る大軍師という自負を持ちながら、何も成せずに老いていくだけ……。
そんな勘助が、甲斐の国を放浪していたある日、偶然にも隠し湯に入っていた勝千代と出会ったのだ――。
別に彼は、ラッキースケベを期待していたわけではないと言っておく。
そもそも、その時、とっくに勝千代は勘助の守備範囲から外れていた。
それはともかく。
美しく猛々しく、器の大きな勝千代は、勘助にとっては別世界の人間、いや、天女に見えた。
その天女がたった一人で、泣いていたのだ。
(なんとしたことか、御館様はお父上の信虎殿にひどく嫌われておられた。信虎殿は闊達で切れ者の御館様ではなく、万事控えめな妹君を偏愛されておられたのだ――)
この時勘助は、自分と勝千代が、似ている、と思った。
そして、このような理不尽、あってはならぬ、とも思った。
自分のような醜く身分卑しい者が我が身の不遇を嘆くのは仕方ない。だが、甲斐源氏の嫡流にして絶世の美貌を誇るお方が――。
知らぬうちに勘助は勝千代の前に歩み出て、平伏していた。覗き犯として手打ちにされることも覚悟して。
「天下一の軍師、山本勘助めにござりまする。怖れながら某が、御館様を天下人に育てて差し上げまする」
滔々と、使い道の無かった軍略を、浪人生活で記憶した知識を、そして勝千代に天下人の相を見つけたことを、隻眼を血走らせ、唾を飛ばし、涙さえ流しながら語った。
(御館様は聡明すぎるが故に己の未来を諦めてしまわれていた。それ故に、某は御館様を天下へと――甲斐の向こう側に広がる広い世界へと連れ出して差し上げたかった)
「ともに天下を盗ろうぞ、勘助」
勘助の話を聞き終えて、勝千代が浮かべた笑顔は、今も色褪せることなく覚えている。
(そうであった……。あの透き通るような笑顔の為に、某は我が命と知謀の全てを御館様の為に捧げると決意したのだ――。某は、あの時、『人』に戻っていたのだ……)
勘助は今、ただ一人の「人間・山本勘助」に戻っていた。
真田衆が自分の口元に耳を寄せてくる気配がした。
「……ゆ、いごんを」
もつれる舌で、最後の言葉を、伝えた。
その言葉は、最後の策――などではなく、己の赤裸々な心の裡であった。
勘助自身、驚いたが。
(これで良かったのだ。御館様を終わりの無い怨嗟の修羅地獄へ落とさずにすんで、ほんとうに、よかった――)
そう、思えた――。
「真田の者どもよ。勘助殿は敵ながら天晴れな男であった。ご遺骸を信玄殿のもとへ送り届けよ。六文銭の旗を掲げる兵には手を出さぬと約束しよう」
真田衆は無言でうなずくと山本勘助の遺骸を馬上に運び、静かに去っていった。
それを滝川一益は悲しげな視線で見送っていた。
実は、死の間際に勘助が勝千代との出会いを思い出したのは偶然ではない。
一益には『人の額に手を当てると、相手に本音を語らせられる』という異能がある。
彼女はこの力を勘助に使い、勘助を人に戻したのだ。
倒れていた道三は、風除けの幕を四方に張り巡らせた寝台の上に仰向けに寝かされた。
もう起き上がる体力は戻ってこないであろう、と道三は悟っていた。
「お爺ちゃんに会いたいと言うておる者が来ているがの、会うかの?」
「信奈殿なら、『もはや親でも子でもない』と追い返してくれぬか。今度こそ、あの情に流される癖を反省させねばならぬ」
「信奈ちゃんはまだついておらぬぞえ」
「では、いったい誰が――」
一益が、「くすくす。すぐに解る」と笑いながら幕の外へと退出した。
入れ替わりに、町人のような平服を身に着けた、若い男が一人で入ってきた。
「親父殿」
「何と。義龍なのか? 何故、実の親の仇である儂に加勢した……!?」
知恵者の道三を以てしても、わからなかった。
「親父殿。儂もまた不治の死病を患い、余命幾許もない。親父殿に「六尺三寸」とからかわれた体も、すっかり骨と皮ばかりよ。甲冑をつける体力も無くなってしまった。
だが、死期を迎えて初めてわかった事がある」
道三がもう起き上がれないとみて、義龍は自分から、道三の枕元へと歩み寄ってきた。
「見えるか、親父殿。これが親父殿の問いの答えだ」
道三は、義龍の面相を見て、言葉を失った。
太りすぎて元の人相がわからなくなっていた程だった義龍。
だが、病を患い痩せこけた、その本当の顔は――。
「お、お……若き日の儂を見ているかのようじゃ……! 義龍、そなたは……!」
かつて、松波庄九郎だったころの、水も滴る美男だった道三そのものだった。
「子が実の親を助ける理由など、それだけで充分ではないか」
「そ……そんなはずはない! そなたの母を主君の土岐家から譲り受けた時、すでにそなたの母はそなたを身ごもっておった。そなたは後に儂が美濃から放逐した
土岐家の嫡子。国内でもずっと噂されておった、ずっと……」
「親父殿。儂もずっと信じていたその噂はな、成り上がった親父殿を妬む者共が流しておった、ただの根も葉もない噂だったのだ。親父殿は、油売りから下剋上の果てに
主君から国を奪ったことへの良心の呵責から、その噂を事実と錯覚してしまっていたのだ」
「それでは、儂とそなたは、本当に――」
なんと。
儂は、なんと救いようのない愚か者だったのか。
他ならぬ自分の子を、他人の子だと怯え続け、刃を交え、子殺しの罪を背負わせようとしなかった義娘を罵倒し――。
その全ての原因が、『蝮』となって良心の呵責から逃れようとした、儂自身の怯懦な心にあったとは――。
義龍よ。すまぬ。すまぬ。
「良いのだ、親父殿。いずれにせよ儂は早逝する宿命であった。真実を知ることなく実の父の首を取るはずだった儂が、最後に親父殿をお救いすることが出来たのだ。
もはや悔いはない。――織田信奈達にも礼を述べたいが、そこまでは身体が持ちそうにない。これが今生の別れとなるだろう」
さらばだ、親父殿。
そう言って、本陣から出て行こうとする義龍に、道三は、
「義龍よ。やはりそなたは儂の子ではない。「蝮」にならなかったのじゃからな……。よく、やった」
そう、言葉をかけた。
「……ありがとう、親父殿。これで本当に悔いはなくなった」
斎藤義龍と、斎藤道三との、これが最後の対面となった。
十二月二十四日。
道三軍の粉砕に失敗した武田信玄軍は木曽川を背にしたまま、越年の準備を始めていた。
背後には上杉謙信と、意地で蘇ってきた松平元康。
姉川での激闘から休みもせずに駆け続けてきた織田軍本隊は岐阜城に入り、道三は何処かへと去った軍を自軍に吸収し、城下の平野に陣を留めていた。
戦局は、完全に膠着していた。
戦力的には、まだ武田方が有利であったが、道三との戦いで消耗した武田騎馬隊は織田鉄砲隊を蹴散らせるほどの余力が無く、織田鉄砲隊も武田騎馬隊を殲滅するほどの数ではない。
このまま激突すれば、両軍共倒れになる。そうならなかったとしても、浅井朝倉、あるいは上杉という大敵と戦う余力は残らない。
両軍の家臣達は、それを避けようと画策していた。
武田が撤退するか、織田が和平を乞うかの二つに一つ。
しかし、かたや義父を亡くし、かたや虫の息の義父に愛想を尽かされたまま死に別れようとしている、両軍の大将がそんな選択をするはずが無かった。
両軍は今日明日にも激突しようとしていた。
一人で部屋に籠り、迷い続けた信奈が大広間に集めた家臣団の前に再び現れた時には、目を真っ赤に泣き腫らして弱り切っていた。
「今すぐ武田信玄と決戦をするしかないわ。信玄を倒せば、あの糞蝮も私こそが天下人だと認めざるを得なくなるでしょう」
そうだろう。
「もう親子の縁は切った。岐阜城に寄らば斬る」とまで道三に言われた以上、見捨てられたくない一心で、そう言いだすだろう。と家臣の誰もがわかっていた。
しかし、今回ばかりは、それをさせるわけにはいかない。
長秀が「この一帯には珍しい豪雪になりましょう。鉄砲が使えないまま戦えば、織田軍は松平軍と共に壊滅します。零点です」と反論し、本当に雪が降り始めても、信奈は決戦を主張した。
「織田家一の知恵者であるこの十兵衛光秀が名案を思い付いたです。私と七梨先輩が南蛮式の祝言を上げるので戦は延期してください、と申し出るのはどうでしょうか!」
「光秀さん。次、何か喋ったら切腹」
光秀がしたり顔で口にした「名案」は、太助にバッサリ切られた。
明智十兵衛光秀。『空気が読めない』のはいつもいつでも自分の事しか考えていないからかもしれない。
結局、良晴を含めた全員から名案は出ず、軍議を開き、一刻後に総攻撃、と決まってしまった。
「信奈さん。フロイスさんとオルガンティノさんが面会に来ているので、俺と良晴さんがあってきます」
「え、おい、ちょ」
慌てる良晴を無理矢理引きずって、太助は大広間を出て行った。
「何すんだよ? 今はそんな場合じゃないだろ?」
「良晴さんは考えすぎなんですよ。ジョバンナさんを見習ったらどうです?」
ジョバンナは一応会議に参加していたのだが、今回の戦で体力を消耗した、と言って食物を要求し、飛騨名産のみたらし団子を既に三十皿ほど平らげて、まだ食べ続けている。
団子と言い、味噌田楽と言い、ただ大食らいなだけなのではないだろうか。
「いや、ジョバンナちゃんは例外だろ……。って言うか、責任感じないのか、お前は? 元を正せば、俺達が長良川で道三を助けちまったせいで、今、信奈は苦しんでるかもしれないんだぜ?」
「逆に聞きますが、後悔してるんですか?」
「いや……人間として正しい選択をしたとは思ってる。でも、織田と武田が全軍を率いて岐阜で睨み合うなんて、戦国ゲームでもなかった極限の状況になって、
信奈は天下取りの絶好のチャンスを手放した上に、道三に見捨てられて自棄になってる。これが、俺の行動のツケと思うと、どうしても……」
成程。さっきの会議でほとんど喋らなかったのも、山本勘助の特攻と同じく責任感から名案をひねり出そうとしていたからか。
「『空爆を止めるにはどうすればいいか』良晴さんは答えられますか?」
「は? こんな時に何を……」
と言いかけて良晴は、待てよ? と思った。
今までにも、太助はこうして自分をテストするような言い回しをすることがあった。
それは大抵、自分が行き詰ったり、目の前の事に夢中になって気付くべきことに気付いていなかった時だ。
「……命令を撤回させる?」
「他には?」
「他? えーと……爆撃機を飛ばせなくしたり、爆弾を使えなくしたり……かな」
「では、その二つを成立させる方法を可能な限り述べてください」
「ええッ!? えー……燃料をぬく、操縦士を何とかする、信管を抜く、飛行機を壊す、積み込まれる前に爆弾を爆発させる……」
五つほど、良晴が意見を出したところで、太助は言った。
「その中で、良晴さんでもできそうなことは幾つありますか?」
「あ……!」
「ネジが一つ欠けても、車を完成させられないように、どんな事柄も必要不可欠な要因が集まってできている。今回だってそうです。信奈さんも勝千……信玄も
哀悼の意を戦にぶつけようとしている。でも、心の奥では、きっと……」
「ああ、俺だってそう思う。でも停戦の理由がねえ。今の状況じゃあ勝家が言うように、正月まで持たねえ」
「だからこそ、今はフロイスさん、オルガンティノさんに会いましょう」
武田晴信は、上杉謙信が迫っている川中島を捨てて、この基礎川の北岸に陣を張ったまま越年する覚悟を固めていた。
勘助が死んだ以上、もう一歩も退くことはできない。
どれだけの血が流れようとも、絶対に織田軍を葬り去り、勘助の仇を討つ。
晴信は、昨夜から一睡もせずに、本陣に家臣団を集め、岐阜城攻略の策を練り続けていた。
そんな中、真田の忍びが一人、なんとしても御耳に入れねばならぬことが二つあります。と言って入ってきた。
一つ目の報告。それは――
「出羽、米沢を治める伊達輝宗の娘、伊達政宗がにわかに家督を継いで挙兵。相馬・佐竹・蘆名・二本松といった近隣大名を瞬く間に撃破。
『奥州の覇者』を名乗って関東に攻め入り、北条家を圧倒しています。――もはや御館様が軍を返さぬ限り、その進撃は阻めませぬ」
「馬鹿な! 奥州の大名共は複雑な婚姻関係を結んで保っているはずだ! それらの大名共を片っ端から攻め潰し、戦上手の北条を圧倒するなど……いったいどんな手を使った!?」
実を言うと答えは簡単である。
政宗は堺で良晴に言われた「オッドアイで敵をビビらせてやれ!」というアドバイスを忠実に実行したのだ。
おまけに白い馬・赤い馬・黒い馬・青白い馬にそれぞれ南蛮甲冑を着込んだ珍妙な使者を乗せ、巨大な十字架を逆さまに担がせ、「ヨハネの黙示録」を敵国に文としてばら撒くという徹底ぶり。
言葉の意味も、何を考えているのかもさっぱりわからないが、とにかく不気味な政宗に、皆心底怯えていた。
そして晴信にも、正宗の事は全く理解できなかった。
「……退かぬ。岐阜城を落とし瀬田に武田の旗を立てるまで、決して!」
それまで晴信の心情を慮って黙していた武田家臣団が、一斉に口を開いた。
「伊達某は、あの北条殿でさえ手に負えぬ謎の強敵。今すぐ本国へ退却せねば手遅れとなります」
「織田信奈と激突すれば、勝てたとしても、被る被害はあの川中島以上になります」
「軍師殿は「兵は奇道なり」と常に仰せでした。多くの血を流して戦をするは下策。卑怯とも鬼とも呼ばれようと、謀略を以て勝つを最上とす。それが軍師殿の教え」
その瞬間、晴信は家臣の一人の胸倉を掴みあげて叫んだ。
「その勘助が討たれたのだぞッ!! あたしのもう一人の父がッ!! お前達はあたしに実に父を追放させるだけでなく、義父を殺されて泣き寝入りしろと、二度までも親不孝をさせるつもりかッ!?!?」
目から、涙がこぼれ始めた。
家臣達もまた、感情を抑えきれなくなったらしく、一斉に顔を伏せて嗚咽を漏らし始めた。
「お待ちあれ。あと一つ、どうしても御館様にお伝えせねばならぬご報告がございます。その後報告と共に、どうかこの御方のお姿を、見ていただきたい」
「何をだ!? この上、あたしに何を見ろというのだ!!」
「勘助殿のご遺骸を。無傷のまま、斎藤道三の陣より送り返されて参りました」
雪が降りしきる岐阜城の二ノ丸にて、太助と良晴は二人の宣教師に会っていた。
良晴は開口一番、オルガンティノに姉川の戦場に埋めたまま、忘れていたことを謝った。
オルガンティノは「カッパの生首と間違えられ、怖がられて、かえって助かりましたし、フロイス様とも再会できました」と気にしてはいなかった。
「でも、げっそりやつれていますけど?」
「そそそそれは、僕の罪と悩みがより深まっているからでして……」
「悩み?」
「タスケさん。オルガンティノは以前から何か個人的な悩みを抱えているようなのですが……」
「ふふふフロイス様にあんな罪深い悩みを打ち明けることなどできません、そんなことをしたら僕は罪の意識が膨らんで死んでしまいます!」
「こんな調子で、いつも私から逃げて相談してくれないんですよ。ふう……」
良晴さんは何か知ってますか? と太助は聞いてみたが良晴は。
「ああ……フロイスちゃんの胸は本当にいつみても癒されるな……まるで天使のように愛らしくてそして甘えたくなる素晴らしいおっぱいだ……」
的な顔をしていたので関わらないことにした。
「それで、ご用件とは?」
「タスケさん。ジパングの暦によれば本日は十二月二十四日、そして明日は十二月二十五日となります。残念なことに戦は続いていますが、
せめてこの岐阜城下でクリスマスの祝祭をおこなうことをノブナ様に許可していただきたいのです」
言われて初めて、良晴は気付いた。
「そうか。今日はクリスマス・イブなんだな……」
フロイスとオルガンティノは、戦を止められなくとも、せめてこの戦で倒れて行った人々、そしてこれから倒れていく人々の為に祈りたいと。
堺と京のキリシタンの皆に、聖歌隊として歌ってもらおうと思っているのだが、何を歌えばいいのかまだ決まっていない。
信奈は道三を亡くそうとし、信玄も山本勘助を亡くした。戦国の習いとは言えあまりにも悲し過ぎる。皆さんの心を癒して差し上げたい……という。
「父、か。俺の親父は海外を飛び回っていて、あまり一緒にいられなかったな。たまに会うと、海外土産のプレゼントをくれたりして――親、父?」
この時。
電撃的な霊感めいたものが、良晴の全身を貫いていた。
「そうだ。親父は、ジョン・レノンの大ファンで特に、えーと……『ハッピー・クリスマス』だったかな……とにかくそんな曲名のクリスマスソングに大ハマリだったんだ。
英語の歌詞なんで、意味は分からないけど今でも歌えるぜ。何度も歌わされたからな」
「イギリス語ですね、ヨシハルさん。どのような意味なのでしょう?」
「ああ、確か……『戦争は終わった』って訳で、当時どこかで行われていた戦争を止めるための反戦ソングだか……何だか……」
再び、良晴に電流が走った。
「そうだ! こいつは停戦の理由になるかもしれねえ! 信奈も武田信玄も馬鹿じゃねえ。一日二日だけでも、一人の人間として、
心のままに振舞える時間が出来れば、頭を冷やして、まともに考えられるようになるかも!」
後書き
執筆の為に原作を読み返していて思ったのですが、この五巻は「道三を心配するあまり冷静ではいられない信奈」「良晴が後の危機を承知で敵の重要人物に肩入れしてしまう」
「道三の危機に感情に従う信奈」と過去とよく似たシチュが非常に多いんですよね。
でも、それぞれに対する信奈と良晴の対応は全然違う。
春日みかげ先生が、意図しているのかどうかは分かりませんが、私はこういう風に解釈しました。
道三と義龍の会話は、十一話の時からこれで行こうと決めていました。
管理人感想
ダークレザードさんからいただきました!
天下より義父を、理より心を取った信奈。
大局を見るなら間違いなくミスジャッジなんですけどねぇ……しかしそんなだからこそ信奈にみんなついていくし、運も彼女に味方する。
善龍、あと直接出てきてないけど元康、そして上杉と梵天丸はまぢグッジョブです。
年越し前、すなわち現代ではクリスマスの時期。
そこから連想に連想を重ねた末に思いついた良晴の策とは? 連想が重なりすぎてて、このシリーズを楽しむために原作読むのを控えてるモリビトにはまったく予想がつきません。
とりあえず思いついたのは第一次大戦時の『戦場のメリークリスマス』の逸話くらいですけど、さて……?